林英樹の演劇手帖 TOP


メキシコリポート2004


2004年05月29日
久しぶりに成田から国外に出る。

実に2001年のオランダ、デンマーク、ベルギー以来だ。10年間、機会あ るごとに日本の外に出た。で、人生の選択、オランダに「移住」するか、日本 に戻るか。結果的に日本を選んだのが2002年。この何もかも難しい国で演 劇をやる覚悟を決めたからにはあとには引けない。腹を据えた。

そんなこんなで海外行きはしばし封印した。が、やはり虫がうずく。もうどこ でもいい。なんてこともないが、久しぶりにITI関連行事にかこつけて前か ら行きたかったメキシコ自費旅行と決めたはいいが、今回の旅行は最悪となっ てしまった。

以下はその情けない顛末。



出発前に一騒動。
持参予定のノートパソコンのダイアルアップがうまくいかない。現地でインタ ーネットに接続できそうに無い。接続をあれこれいじっていたらどんどん時間 が経ち、他にも準備があるのにどうするんだ、状態。ネットへの接続はあきら めよう。いかにコンピューターなしでは、生活の基本が崩れるか痛感する。1 0日くらい、メールのチェックなしでいても死ぬわけではあるまいて。

飛行機は午後便なので、自宅を10時半に出ても間に合う。朝のラッシュの山 手線に大きな荷物持ち込みで必死の割り込みをしなくていいだけ助かる。


コンチネンタル航空6便ヒューストン行き。ヒューストンの空港はジョージ・ ブッシュ空港だとか。テキサス州にあると初めて知る。ヒューストン経由、メ キシコ・タンピコまで航空運賃が何と67、500円。いい時代になった。手 軽に海外に行けるなんて。



1時間遅れで16時半頃成田を出て、同日4時過ぎにヒューストンに到着。1 1時間くらいのフライトだが、小説『落日の王子』第1巻を読みきり(暇つぶ しに)、睡眠もかなり出来たので、それほど苦痛ではなかった。

ヒューストンで20:30までタンピコ行きを待つ。やたらに大きな空港。出 発ロビー自体が広過ぎる。しばらく出発ロビー内を「散歩」。幾度かコーヒ ー、マクドナルドで頼んだコーヒーのミディアアムの量の多さよ。

何とか時間をつぶして、やっと現地の午後7時半。タンピコ行きのターミナル に入る。D-75。
バングラデシュの若い演出家が来ていた。京都の「マイケル・ジャクソン」は すでに成田で顔を合わせている。3列、60人乗り程度の小さな飛行機。同じ コンチネンタル航空便だ。

タンピコに一時間程で到着。空港にITIのボランティアと思しき少女が来てい る。
助かった。知らない土地、到着早々が一番緊張する。


ホリディ・インに宿泊。4ツ星ホテル、少し郊外、滞在型リゾートホテルの感 じ。
部屋はずいぶん広い。昔と違って無理無茶も出来なくなったから、私にとって は少しレベルの高いホテルにしたのだが。設備も整っているが、何故かクーラ ーが効かない。フロントに言うと、修理班がやってくる。大丈夫かなあ。

今回は自費の旅行、気軽だが、一人でメキシコの中心から遠く離れた田舎町、 何とかやらなくちゃあ。

2004年05月30日
5月30日(日)

9時半(実際には10時―1時)。
カミーノ・レアルホテルのグランドサルーンで総会一日目。

このホテル、なんだかやたら格調高い。メキシコは貧富の差が激しい国。上流 階級(ヨーロッパ系白人社会)はとことん上流。プールや巨大な庭があり、使 用人が何人もいる、そんな家がごろごろあり、白人以外お断り(日本人も有色 人種だから入れない)の高級レストランさえある。

この国で演劇は高級芸術。オペラ、バレエ、演劇、庶民には高嶺の花、か。む ろん、いやだからこそ中南米には民衆のための演劇活動が盛ん、でもある。

アウグスト・ボアールの演劇ワークショップ活動と理論はアジアではフィリピ ンに入り(PETA)、それが日本にも来ている。ロンドンで発達した、知的 演劇人のための「ゲーム(遊び)」ワークショップ(要するに頭がこちこちの 演劇人にもっと楽しめ、というもので日本ではアングラ演劇が、真面目腐った 演劇に芸能の要素を持ち込んだ、それ以降、地崩れ的に小劇場は「ゲーム」、 「遊び」感覚に雪崩を打ったから、英国式ワークショップなんて、今更、この 国に必要なのか、ってばかばかしくなるが(英国を今だに文明の教師扱いなん て)、全く別の思想に基づく演劇ワークショップがこちらにはある。それは階 級社会の矛盾の激しさ、そのクビキと引き剥がして考えることは出来ないそう いう類のものとして、ある。


それはそうとして、やはりここはメキシコ、いくらおつにすました高級ホテル でも何かにつけて段取りが悪い。席に国名が表示されていないから、どこに座 るべきか不明。かつ各国ニ名までの正式参加によって総会は成立だが、その形 が成り立たない。



アンドレ・ペルネッティITI本部事務局長が壇上のマーサ(前前会長)の呼 びかけで演説をひとくさり。文化の多様性とITIの存在理由について。それと ユネスコの使命。しかし、あまりユネスコとの関連ばかりを言うと、演劇文化 そのものの現在形の進歩と隔絶したものにITIが陥ると、いうかすでに陥って いる。


11時―
タンピコ市街にバスで移動。暑い上に蒸す。人々はだれている。その表情、知 的な感じがしない。その日を生きるためのみに生きている、ような感じ。灰色 の風景、褐色の人々。だから宗教が必要なのだろう。それでも人々の風紀は乱 れる、犯罪が増える。この国のこの状態は改善されないだろう。歪んでいる。 隣にアメリカという成功した国がある以上、そことの比較で人々の心はますま す歪む。農耕社会になって、富の蓄積とアンバランスからの救いとして宗教は 生まれたのだが、現在は宗教が救わない分、人々は救いようのない状態に置か れている。だから、家族こそが支えなのだろうか。


13時―
市内の広場に面した「高級ホテル」で昼食。海鮮スパゲティー。それなりにお いしい。スペイン系だけに味覚はアングロサクソンに比べてまし。スーパーで まるちゃんのカップ面を購入。3ペソ(30円)と格安。タクシーも20ペソ (200円程度)、物価は安いから、お金が減らないのがうれしい。


14時半―17時半
結局、3時スタートで分科会。CIDC(*2)に加わる。手続きに時間を費やし ている。メンバーとボードの選り分けなど。「組織」のストラクチャーの手続 き。今更、こういうことをしているのか。



バスを使って、いったんホリディインに戻る。

時差ぼけのため、少し寝る。

22時半―
タクシーで「文化の家」に。今度は倍の距離のせいか、40ペソ要求される。 というかメータがないから運転手の気分次第なのだろう。

イラン(テヘラン大学演劇学部)の「イラニアン・ソング」を見る。5名(女 子3名)によるパフォーマンス。壇上(舞台上)の椅子に出演者は腰掛け、自 分の演技の番を待つ。途中で、「次の演目」をつけひげの男子学生がアナウン スし、女子二名によるパーフォーマンスへ、という具合にオムニバス的に構成 されているようだ。

2004年05月31日
5月31日(月)

ホテルの位置が、少し離れているせいか、孤立した感じ。宿泊場所にまず「失 敗」した模様。日本では、現地状況が全くわからなかったので、こういう当た りはずれは全く「運」としかない。


2時半―4時
CIDC委員会
代表を会長とするか、コーディネイタートするかで投票。メキシコのイサベラ は「プレジデント」の名が気に入っているようだ。アジア地区「会長」のヤン さん(韓国ITI)も「プレジデント」好きの一人。まあ、肩書きなんてアー チストにはどうでもいい話だが、その周辺にいて、「文化官僚」を目指す者に とっては重要なのだろう。情けない話だ。ITIはそういう「肩書き好き」人間 ばかりが集まっているわけではないが、彼らの行動はその分、熱心なだけに目 立ってしまう。

バングラデシュのマジュンダーは人間としての「品格」が備わっている。キプ ロスのニコス・シャフカリスは素朴に演劇を愛しているのがわかる。


ホテルに一度戻り、そこからメトロヘタクシーで向かう。何もない原っぱに、 この町にふさわしくない近代的建築が建っている。これがポスターの象徴デザ インになっているメトロであったか、はあ。。中は恐ろしく空調が利き過ぎて 寒い。イルマ・メザによるダンス・パフォーマンス。客はITI以外にも大勢 来ている。

この国は貧富の差、階級の差が激しい、町を歩くと実感する。ここ(劇場)に 来る人は「上流階級」にいる人々なのであろう。メキシコセンターのイサベラ もそういった人種、「上流階級の女」あるいは、「お高くとまった女」という 印象であった。

途中で抜け出し、近くの「湖」の湖畔へ。散策する。


「ITI一行」専用のバスに乗って、市内へ移動し、アルベルト広場での北東 メキシコ演劇祭の演目を見る事に。こちらもひとだかり。「村芝居」を見に来 た感じ。「ただ」ということと田舎で刺激が少ないのだろう。芝居の内容、と いうより「何かある」ということで人々はワクワク待ち望んでいる感じだ。こ れは演劇にとって「大切」な原点だ。この雰囲気は、ギリシア劇でもかつて
似たものがあったのではないだろうか。


夜、アルベルト広場でパフォーマンスを見た後、広場に面したセビリアホテル で夕食を取る。
肉料理と魚料理。肉がおいしい。魚は味が薄いので、ソースをかける。すると たまらなく辛くなる。

それがたたったか、夜、吐き気を催し、朝方まで何度か吐いてしまう。食事か ら10時間近く経って、胃の中にもう何も残っていないはずなのに、唐辛子の かけらが胃液とともに出てくる。「辛子」に胃が驚いてしまったのか?朝にな っても、腹が張った感じと、きりきりする感じが残り、食欲がない。また食事 がのどを通らない。胃が受けつけようとしない感じ。まいった。。。。

2007年11月11日
6月1日(火)

昨日の夕食の後、もう何も吐くものが胃の中にはなく、
胃液を一晩中吐く、最悪の状態。

会議には出席せず、ホテルで一日休む。
食事は取れない。
水を少しずつ飲む。
体調回復をひたすら寝て待つ。

2004年06月02日
6月2日(水)

ホテルで一日休む。最悪のメキシコになってしまった。

「ITI一行」は午後はビーチで昼食と「時間潰し」のようだ。このサロン的 な場が好きで常連になっている者も多いのだろう。ITIの苦手な所だ。必要 のない相手と必要のない会話をするのは得意ではない。

2004年06月03日
6月3日(木)

朝、ホテルで朝食。「朝食付き」の件で、食堂の兄さんとまた訳のわからぬや り取り。いちいち面倒な国だ。何とか、パンをふた切れ口に入れる。腹が張 る。軽い痛みがあって、食欲がない。


11時頃、何とかホテルを出て、ふらふらしながらも総会会場のカミーノ・ホ テルへ行く。松竹の澤田さんを見付ける。具合を悪くした件を話すと、「あ、 そう」という感じだが、同行して来た彼の妹さんも具合を悪くしたようだ。永 井さんの旦那さんを見付ける。薬は持っていないようだ。永井さんも一日具合 を悪くしたよう。彼女は仕事があってすでに帰国したとか。


12時、文化の家近くまで歩く。中華レストランを見つけて入る。「すし」と 中華に分かれている。「すし」を4つ取る。それでやっと腹ごしらえ、何とか おなかにものを入れた感じ。

その後、ワークショップを見ようと思ったが、お腹の具合が悪いので、ホテル に戻り、休む。そのまま、お腹の張り、軽い痛み、食欲無しが続く。メキシコ へ来て、格闘の日々が続く。


90年代に初めてポーランドへ行ったときのことを思い出す。公演のための劇 場探し、でのこと。あの時はホテルで一週間動けなくなった。食事も取ること が出来ず、そのまま死ぬかと本気で思ったが、今回は他に日本人もいるし、I TIの会議でまあ何とかなるだろう。

2004年06月04日
6月4日(金)


体調が戻って来たので、会場のカミーナホテルへ出かける。

総会3日目(最終日)を覗く。

ITI(世界レベル)を客観的に「外」側から責任を持たずに見るいい機会とな る。日本センターの席には小田切さんと北村君が着席。

ITIにはあまりに多様な人々が集まりすぎ。それがこの組織を動きずらくし、 わかりずらくし、自分の目標を持った気鋭の活動家には魅力の薄いものになっ ているのだと思う。日本ではITIの「必要性」は希薄である。しかし、韓国で はどうか?あきらかに「国威発揚」の場として利用している。ヤン・フイセッ クさんは、そして前会長のキム・ジョンオクさんも、韓国内での自分のステイ タスアップのためにITIを利用し、だからこそITIをより権威付けようとしてい る。

フィリピンはITIよりも「UNESCO」の方にポイントを置いている。彼らの社会 で、演劇団体より、ユネスコの方が、「国連」という言葉の方が意味をなすの であろう。今回の会議を主催したメキシコセンターは、やはり彼らの国内やラ テンアメリカ内でのポジションアップのために今回の会議の誘致や、この北東 メキシコにあって、開発からも有名な観光からも取り残された何の「売り」も ない、さえないパウリスタ州との提携を利用したようだ。

海外のアーチストは、あるいは人種は、実に自分の為に様々な機会や組織を利 用することに長けている。日本人は気質として「お人よし」だなと海外に出る たびに認識させられるが、ここでも同じことを確認させられる。



今日、蟻を1時間近く観察した。「文化の家」で、昼時の休憩を戸外のベンチ で過ごす際に。蟻は何の目的で働いているのか?その仕事は何のためにしてい るか?そして彼らは何の為に存在しているのか?その蟻と我々(人間)はどう 違うのか?


10時半、カミーノ・ホテルで総会三日目(最終日)を覗き、その後、途中で 退座して文化の家のワークショップを見学に行く。


ロシアのS専門家によるWSデモンストレーション。ロシア人のくせにぺらぺ らの英語を話していると思ったら、ニューヨーク大学で演劇を教えているよう だ。まるで大学の授業のような風景であった。スタニスラフスキーシステムに 関して。このシステムは、ずいぶん多くの「教師」に世界中で職を与えてい る。権威化されている。日本でもそうだ。

スタニスラフスキーは真面目な実践家で研究者であったと思う。が、その後、 システム化し権威化された時、このシステムが演劇を狭く保守的な場所に閉じ 込める結果を招いた。


夜、ホテルでコンピューターと向き合い。深夜2時。以前より、「海外」に対 し「熱」が醒めたのだろうか。ここに来てからだがポジティブに動こうとしな いのは、体調のせいだけではない。

プロジェクトの交渉より、自分が芸術的にこれから探求するべきことをクリア に出切れば良いのだ。そのために、会議での配布物なども多いに助けになる。 「思考の旅」の中で見つける事、何かを。「何か」はこれまで自分が辿って来 た道の確認でもある。


2000年の帰国以来(いやそれよりはるか前からの、自問、内省・・・の旅 はもうしばらく続く。思わぬ体調不良で殆ど動けなかったが、メキシコへ行っ て、よかったと思う。たとえわずかでも日本とその日常のあれこれを離れるこ とで客観化の「効果」は十分出る。時々、日本を離れ、離れたところから日本 を見る。このことが大切だと思う。


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