「アンチゴネー/血」



2006年9月
(新)テラ・アーツ・ファクトリー 第3回公演



2004年9月10日
試演会に向けて


死と再生の国、トルコ

トルコから『アンチゴネー/血』へ。

トルコに行ってきた。初めて訪ねる地。

6月のメキシコは、 ITIの会議中心の渡航だったため、メキ シコ湾に面したタンピコ市という何の面白みもない町しか見られ なかった「腹いせ」と「悔しさ」もあってか、今回はエーゲ海か ら内陸まで旅をし、様々な風景(荒涼とした大地、森のない 山々)とギリシア、ローマ、更に古いヒッタイトの遺跡、そして 長年の夢だったトロイの地も踏むことが出来、濃密な旅となっ た。

一年間以上にわたるヨーロッパ暮らしから帰国したあと、三年ほ ど海外は「禁止」にしていたのだが、メキシコで解禁してから、 また放浪癖が出てきたみたい(笑)、というだけではなく、新テ ラ・アーツ・ファクトリーの活動再開へ向け、今後パイプを作っ てゆこうと思う地域を特定したく、面白そうな場所(国)を物色 に歩いている、つもりかな?前に触れたエムレ君ともすっかり仲 良くなり、彼もぜひトルコで公演してくれ、と後押ししてくれて いるし。。。。。

でも、まずその土地が気にいらなきゃあ。次に相互に共通する関 心を持つ演劇人とつながらなくちゃあ、というのが林的活動スタ イルなので、どこでも海外なら良いってわけにはいかんのよね え。でも、今回のたびでトルコは林のつぼにはまった。。。。

で、いま、創作を行っている『アンチゴネー/血』のことをあれ これ、日本から遠く離れた地で夢想した旅でもあったり。新作は 自殺志願者の投稿サイトを舞台とした創作だが、「死と生」をこ の荒涼たる大地を前に改めて考えたり。。。。2、000年前か ら原型を留めたまま残る神殿の柱を、彫刻を前に、たかだか10 0年程度もこの地上に居ることの出来ない人間。そんな心もとな い人間が、神々を創造した由縁が何となくわかる気がした。

『アンチゴネー/血』は「カルト的」な作品になると思うが、そ れは死というものを題材にしているからか、あるいは死というも のを日常から排除したはずの近代の果てに、若い世代が感覚的に 隣接し始めた死、が日本だけでなく、世界的視点からも今後キー ワードとなる予感がしたからか、あるいは昔から何とはなしに惹 かれていた題材だからか、そのいずれかはわからないけれど、 『アンチゴネー/血』は、われわれの中に「膿」のように溜まる 何かを吐き出す欲求と無縁ではない作品になるか、とは思う。

今回は最初の「試作」なので、序章的なものになるだろう。「実 験・創造工房」の枠の中で9月23日に、藤野芸術の家クリエー ションホールで上演する。いま、わくわくしながら、ぞくぞくし ながら「もの作り」の楽しさを味わっているところ。

2006年6月24日
試演会(2004年版)をたたき台に公演へ向かう
9月公演の宣伝写真を撮影するため、いつもお世話になっている 森さんのスタジオに。西新宿に自宅兼スタジオを持ってられる。 それだけでもすごい。観客を呼んで小芝居が出来る、と思った り。そういうわけには行かないか。今回の被写体は吉永睦子。絵 を描く彼女は舞台にも立つが、宣伝写真のモデルは今回が初め て。

次回公演は『アンティゴネー』をメタテクスト化する『アンチゴ ネー/血』。やはりアンティゴネーもジャンブダルクも(実はギ リシア劇以前に、学生時代、フランス語の授業で教科書に使われ ていたアヌイの『アンチゴーヌ』が頭から離れず、アンティゴネ ーとアンチゴーヌがごっちゃになって「アンチゴネー」になって しまった。しかし本来の意味のアンチ(反)の意図をより出した くて、というのもあり。。。です、この命名は。)「反」、 「叛」の象徴、とも読み取れるし、そうである以上、それは美し くありたい。世の中まるごと保守化している現在、「反」の勢力 は消えそうだからこそ、「反」はことさら声を大きくしたい。 で、演劇的には言葉ではなく、身体で拡声するわけだから、フィ ジカルに美しくありたい。何だか、こじつけもひどいが、まあそ ういうこじつけである(笑)。で、森さんの力のおかげで美しい 写真が撮れた。やはりプロフェッショナルだ、と感心ひとしき り。

さて9月公演のちらし、、表紙絵は吉永さんに描いてもらったお どろおどろしい絵を使う。また、胎児。私のコンセプトは爆発す る胎児がばらばらに血しぶきをあげる(えぐっ)であったが、さ すがにこんな馬鹿な要求は当然無視され、絵はきちんとした絵に なった。で、裏面は描いた張本人の写真、別にしゃれのつもりで はないが、ジョークではアル(?)。。。。。衣装を作ってくれ たかおり、小道具(爆弾)作ってくれた西君、応援にかけつけて 撮影の手伝いをしてくれたあんこ、うめ、よしき、岸、中内、あ りがとさん。あ、写真のテーマは「自爆」です。

2006年7月12日
『アンチゴネー/血』のちらしの色校正版が出きて来る。思った 以上にいい感じ、やった!!好きな人は好きでしょう。テラ・ア ーツ・ファクトリーのちらしのコレクションをする人も出てきそ うな感じ。独特の手作り感。最近のちらしはコンピューターでお 手軽に出来そうなものが多い。演劇も手軽に作れば、ちらしも同 様。「コンビニ演劇」の「コンビニちらし」が多い。だからまず それ専用の絵(今回は水彩画)を製作し、それを元にスタジオで 裏面の写真題材も撮影し、で手間隙かけ、魂もさいて作ったちら しは、同じく手間隙かけて作る集団創作スタイルの舞台同様、大 量消費社会真っ向から「アンチ」する態度の表れ、でもある。印 刷して出来上がるのは来週、それから折込などをする。ポスター も一緒に作成。迫力ある、と思うな、ポスターは。


夜はテラ・アーツ・ファクトリーの稽古。7月に入って週3回集 まり、基礎稽古と基礎プランに関しての話し合いが中心。なかな か思うように進まない。大いに壁にぶつかっている。集団創作、 という体制がまだメンバーの中に十分なじんでいないのと、どう 稽古を進めてゆくか手探りの状態。戯曲が先にあって、あるいは 演出の指示に従って、そういうシステムが特に日本人気質と合う のだろう。容易にそこから出られないでいるメンバーたち。すで に一度形が出来ている作品だが、それを「模倣」するのは安易。 あくまでたたき台にして、まずは出演者が、そこから更に立案し 提案する。これがなかなか出てこない。意見が出ない。出せない のか。。。その状態をなんとか打破するにはどうすればいいか、 藤井と二人、悩む日々。こっちが段取りをつけてその通り、やっ てもらう。それは手っ取り早いが、それでは集団創作にはならん でしょ。。。。待つ日々が続く。我慢比べ。。。

2006年8月12日
テラ・アーツ・ファクトリーが新メンバーで上演活動を始めても うじき一年。20代前半の若者を中心にした集団だが、演技訓練 は5〜6年以上積み重ねてきた。しかし、演劇集団という組織活 動を体験するのは、初めてのこと。その分、みな手垢にまみれて いないから、ここで純粋に〈芸術創造〉を徹底する集団と出会 い、舞台芸術家としての基本姿勢が強固に形成されるのはすごい ことだと思う。将来、この経験をぜひ活かして欲しい。そのため には何として継続してもらいたいし、辞めるといまやっているこ の労力と苦労が意味を失う。

が、テラ・スタイルの集団創作の創造経験をすると、他の団体に 客演する場合、物足りなさも出てくるだろう。しかし、今回の公 演が終わったら、2月の紀伊国屋ホールでの某劇団の公演、世田 谷パブリックでの企画などにも、あるいはもっと小さな規模の企 画やワークショップにも積極的に参加させたいと思っている。客 観的な目で演劇、舞台、演技、社会、世界、自分・・を見つめる 広い視野を持ってもらいたいと思うから。

今日はお盆休み前、最後の稽古だったが、演技者連中に稽古場を 任せた。で、ほぼ大枠が固まってきたので、今日は演技者が選ん で来たテクストの再検討、などを稽古後にいつものマックに集合 して行う。

先週、今週と毎日、稽古後終電まで話し合い、をする。みなも、 積極的に話す、話し合いをするようになってきた。言葉を通じた コミュニケーション、日本人の一番苦手なところだが、表現者た るもの、これができなければ駄目だ。特にそのための演劇集団、 という場なのだから。。。

自分がやっていることを自分の言葉で語ること。言葉では話せな いから・・・、という言い訳が日本人は得意だが、では、何で他 人と脳の中の情報を共有するのか?もちろん、最終的に舞台とな ったときは、言語表現は最小限にしたいし、言語が表現する限界 性のその先に突き抜けてゆく表現をめざすが、そこに至るプロセ スにおいては互いに頭の中で考えている思考のプロセスも共有す るべきだ。そのための手段としてのコミュニケーションである。

25時過ぎ、山内、中内、そしてシーン2の動作テクスト(身振 りのスコアー)作成を任せられた横山と佐藤が終電過ぎても打ち 合わせは続く。朝まで、かな。。演出(作家)が演技者を支配す るのではなく、演技者が自分の表現するものの作家であり演出家 である、ためにはまず演技者が自分の言語テクスト、動作テクス トも作るべし。これがテラのやり方。はじめは戸惑いもあるが、 任せてみるとどんどん力量があとからついて来る。責任が伴うか らだろうが、こうしたやり方は演技者も膨大な思考と時間を要す る。そこがいいところ、他にはないテラの創造集団としての本領 かも。

2006年8月31日
『アンチゴネー/血』の創造作業に関して、悪戦苦闘が続いた8 月も今日で最後。

8月中に大まかな目処を立てる!とメンバーともども死に物狂い の格闘戦の日々が続いた。錯綜、紆余曲折、壁・・・、まだまだ 先は続くが、3/4のシーンはほぼ固まる。あとは、研ぎ澄まして ゆくこと。これから4つに大きく分かれるシーンの最後の場面を 構想、構築する作業。切り口が「ええっ」という斬新さを持ち、 それが命だから、詳細は事前に明らかに出来ないが、頂上まであ ともう一歩!!がんばれ、みんな!!

2006年9月8日
『アンチゴネー/血』新版、今日、何とか完成の目処が立った。 今日は久しぶりに肩が軽くなった感じ。かなりいけてると思う。 表現の手法、スタイルも面白いと思うが、何より神経を使った象 徴的表現の背景のしっかりした裏づけや、即興的に作っているシ ーンの語句の絞り込み、一行一行へのこだわり、動きの一つ一つ への配慮、思慮、高度なテクニックを必要とする箇所を妥協せず 徹底する、など若いメンバー主体だからといって、容赦はしな い。

メンバーもきっちり、付いて来てくれる。もちろん、納得するも のがあるからであって、理不尽であれば誰もついては来ない。だ から、作品の詰め、見ている観客は一瞬だから見逃すかもしれな いところも、丁寧に練り込む。ずいぶん時間をかけて話し合い、 考え、テクストに関しては全員が参加して作っている、文字通 り、役者は演技だけでなく、創作主体でもある集団創造の味が出 ていると思われる。

全体に抑制し、抑えを効かしつつ、観客も決して飽きない。目で 飽きないだけでなく、様々な舞台の情報によって、想像力のレベ ルでも飽きない、そういう作品になりつつある。

だから今日はほっと、する。長い、苦しい夏。そろそろ秋の気配 もする今日この頃。すっかり芝居作りで明け暮れ、今年の夏は過 ぎてしまった。

2006年9月9日
あれこれ試しながらの現場はきついが楽しい。

あれこれ探って試行錯誤していた滝がようやく照準を合わせ始め る。すると稽古場は爆笑の連続。いい歳こいて、脂肪もたっぷり ついた彼(失礼)が、あれこれ必死で動くとおかしい。その上、 佐々木君が女ものの服を着る、脱ぐシーン、これも一同、腹を抱 えて大笑いの渦。笑いを取る舞台ではないが、人間の行動が実に 不可解で、視点を変えれば、実に奇妙でおかしい、ということだ ろう。

今回はユーモラスなシーンも盛り込まれ、しかし、笑いは目的で はなく、あくまで主題と密接に絡んでのこと。とは言っても観客 には理屈よりまずは目と耳と感覚のアンテナで見てもらいたい。

固めるところと、試すところを並行してやり、試しの中で行ける 所はそのまま固め、固める箇所を少しずつ増やしてゆく。

何より、はじめから図面が決まっている通常の芝居つくりに比べ て、試しをこれだけ稽古場の中でやれる場はみなの意志が一致し ていないと難しい。

その点で、これだけ試しを稽古場の中で重ねられるのは、なんて 幸せなことだろう、と稽古後の飲み会でつくづく思う。

たいがいは労を、時間を惜しんで出来るだけ早く形にすることを 考えてしまう。つまり最短距離の稽古を、稽古場を作ってしま う。それのほうがやる方も面倒くさくないし。だからそれをやり たくない。

稽古場自体が実験の場であり、だから創造の場である、そういう ことが可能な集団や場を持ちたいがためにやっている。それがい ま実際にそうなっていることに幸せを感じた一日。

2006年9月10日
今日は一日かけて最後のシーンを作る。ほぼ形は出来た。


テレビで維新派の舞台を見る。「軍隊」、これが印象。動き方が 全部、イチニイチニ・・・。軍事訓練、のような動き。この演出 家はニンゲンには興味がない。セットがあって人はセットの一つ にすぎない。私には全く関心のない世界だ。軍隊と同じ、人はコ マにすぎない。大きな歯車のコマ。そういう動き方、身体のとら え方をしている。

演劇界には頭では反戦、などと言いながら体質的に軍隊的な立ち 居振る舞いを好んだり、集団の仕切り方は独裁、無意識の部分は 権威主義者、が多い。演出家は独裁者だが、通常・・・・。


が、それが嫌でテラは集団創作、つまり独裁体制が難しいやりか たをする。何事も話し合いが必要、手間はかかるし、説得、納得 を重視する。創作では上下関係を取っ払い、よりリベラルな集団 形式を取る。

だから維新派はいわば敵である。あれは軍隊、つまり戦後の日本 の会社と変わらない。こんなものを喜んでいる自分自身の無意識 の体質をこそ知れ。いや、そういう人は自分では決してわからな いものだ。思わず、山本七平氏の戦争体験ドキュメントを思い起 こす。

パパ・タラフマラ、維新派・・・・、もろもろ。これらはようや くニンゲンが奴隷や下僕(神、王、貴族の)から解放された市民 革命以降の世紀に対する反動でしかない。

2006年9月11日
午後から稽古、夜は初めてラストまで通す。

うん、作品的にはばっちり。構成はうまく行った。ラストにき て、なるほどと納得する。何が、っていうのが、おそらく思考の 始まりだろう。理屈では完全にわからない、 つまり舞台上の言 葉でそこを説明しないし、4つのシーンは それぞれ独立した断 片にも見えるからすぐにはわかりずらいが、ラストにきて、思い の部分で納得する。それから何故、納得したのか、それを知りた くて自分自身への内省、探る思考の旅が始まる。そういうことが かなりうまくいった作品になる。こうした舞台がやりたい、とい うものが出来たことは確か。



ラストはまだ完全ではないが、ほぼ全体像が見えた。頭で(観 念)であれこれ考えても、実際の舞台はそうはならない。実際に そこに身体を置いて、感じたものを先入観なしに受け止めて、何 が感じられたか、そこから逆行して思考作業を進めるようにして いる。

で、ラストまで通して、それを前にした自分の身体が、なるほど と納得するものがあった、それもかなり強く。だからこれはいけ る、と判断した。

その「強く」感じた何かが、何だったのだろう、という思考の探 索が、劇場を去った後、観客の中で始まる、そういうものが良い 舞台であると私は考えている。

見た際には、理屈では完全にわからない、だけど「強い」何かに 引き寄せられる。感覚的にも情念としても、それが強ければ強い ほど、何故なのだろう、という探求の気持ちも強くなる。それが 作品の強度だと思う。
 
だから自分自身への内省、思考の旅が始まるわけだ。 そういう ことがかなりうまく仕掛けられる作品になったと思った。
 
こうした舞台がやりたい、というものが出来たことは確か。後 は、まだ詰めの甘いところが随所にあるので、これから最後のや すりで仕上げを完全にしてゆく。


『アンチゴネー/血』は2004年9月の試演でスタートし、2 年の時を経て、今日、ほぼその形が仕上がった、と言える。

2006年9月12日
北欧公演ツアーに行っていた照明の福田玲子が帰国し、稽古場に 来る。今日も通しを一回やる。終わった後、食事をしながら福田 と雑談。照明で考慮すべきポイントはどこか、と聞く。さっそく 彼女から指摘された箇所は、私が想定していた何気ない場所。一 度見て気づいて欲しい場所だが、普通の照明さんは一度見ても、 だから10回見ても気づかない。さすが、歳は取っても(失礼、 まだ若い?)鈍くなっていないので安心。

まあ、だから信頼しているわけだが。これが普通はなかなかそう は行かない。まず、わからない。誰でも気づくところは気づく が、そうでないポイントが幾つかある。それがそのシーンの「位 置」を決定付けたり、登場する人物の意味を意味づけたりする場 合があって、なかなかなのだが、そういうのを見抜ける照明家は 演劇界では非常に少ない。

彼らはだから、こちらに常に答えを求めてくる。自分の全感性と 思考を通していないから、言われたことをなるほど、とうなづく が、結局、命令された通りやる、という〈軍隊形式〉と変わらな い。だからギクシャクしたものになる(ちなみに軍隊には「命 令」しかない、とは私の尊敬する山本七平氏の体験談による)。

それにしてもフィンランド、ノルウェー、アイスランドと、行っ た国はなかなか渋い。その国の国情、人々の様子で席は花盛りと なった。楽しいひと時、でした。

2006年9月13日
気温が急変している影響を受けてか、2、3日前から持病の眼痛 が出てくる。目の奥から延髄にかけて、錐で突き刺すように痛 い。これが出るともうただひたすらこらえるしかない。


『アンチゴネー/血』、舞台の大きさを設定しての通し稽古。ほ ぼ作品的には仕上がった。あとは、演技面を更にアップ。『イグ アナの娘、たち』では、殆ど試演会で構成は完成したが、演技面 でぎりぎりまで苦戦した。技術だけでなく、思考力が問われる。 これが今後も若いメンバーの課題。作家の思想に依存するのでは なく、一人一人、個々の演技者の思考が左右する舞台だから、若 いメンバーにはすごく鍛えられる場になる。思った以上に、構成 的に良い感じに仕上がる。今回に限らず、時を改め、再び上演の 機会を作ってみたいと思う。

早めに仕上がったので(構成面だが)、これから本番までの余裕 は出来た。パンフレット作成、スタッフとの打ち合わせなど、や ることは一杯あるが、十分対応できる時間が出来たのでありがた い。演技者は、まだ残っている個々の課題をクリアしていっても らいたい。

2006年9月15日
眼痛が堪えられないほどの痛みに変わって、日中は何も手につか ず、夕方まで休む。その間も思考は『アンチゴネー/血』世界を 駆け巡る。


で、夕方までにまだ稽古でクリアできていない部分(第4のシー ン)をやっておいて欲しい、とテラ女子陣に頼むも、結果的に夜 の稽古で見せてもらったが、進展が見られないかった。時間が足 りなかったのかもしれない。が、アプローチの意識が甘いとも感 じた。構成はいい、作品「世界」はかなりハイレベル、主題も明 確、しかし演じる者の思考、思慮がついていけてない、では話に ならない。自分が演じる(表現する)なら、自分で何とかする が、他人に託するしかない演出という仕事に歯がゆさを感じ た。。。。もう一度、自分たちで自分たちの頭を使って、考えて もらうことにする。問題は作品全体のとらえ方、そこから俯瞰し てみた自分たちの〈位置〉への考慮、そこがアプローチする場 合、の具体面(演技、発語、居方、行為行動、身振り)での基本 方針を生み出す。演出が指示してその通りやる、ではロボットに 過ぎない。何とかするのは本人たちの力で、どこを何とかして欲 しいのか、の指摘はする。そのためのあれこれのヒントは演出が 提示する仕事。それをどう料理するか、それは演技者の仕事であ る。

稽古後、演技者でかなり突き詰めて話し合いをしたらしい。思考 が深まったようで、明日の稽古が楽しみ。10回くらい公演をし て皆がどのくらい成長するか(思考レベルで)、そういうことを 目指して活動をしている。今のテラのメンバーには十分、成長の 可能性を感じる。先が楽しみ。もちろん、10回先、と言っても それまでのんびりやっていては進歩は生まれない。一回一回、課 題をクリアしていかないと。だから真剣勝負、一期一会でのぞ む。。。。



以下は、一般論として
質、量共に有能な人材が少なくなったのは事実だろう。理由は勉 強をしていないからだ。あるいは学ぼうという姿勢、努力が不足 しているからだ。演劇界の話だけではなく、日本社会全体のこと だが。だから結論が早い。すぐきれる。中国で靖国問題への批判 があると、その根幹の問題を考えずに、表層だけで反発し、排外 的になる。

勉強不足、演劇の世界で言うと、たとえば言語で語っても伝わら ない。勉強していないから教養が欠如しているし、思考力が極端 に落ちている。いや、思考の方法がわからないと言った方がいい か。。。。

アルトー、グロトフスキー、デリダ、メイエルホリド、世阿弥、 フーコー・・・・、これらは学生時代に読むべき基礎教養だと思 うが(少なくとも演劇、文化系なら)、いま役者をめざす連中で 読んでいる人間は殆どいない。本を読まない、難しいものには手 を出さない風潮ゆえ?だから読め、と言っても言語世界の修練が なく、「感覚世界」(ムード、気分、フィーリング)で育ってき ているから、言語理解能力の基礎自体がなくて読めない、理解で きない。

テクストも象徴的、観念的、形而上的な文言は手に負えない。わ かりやすいものしか発語できない。演出からある言葉を語られて も、その象徴性や暗示するもの、含意、含蓄、それらが理解でき ない。日本の様々な現場で外部の俳優、役者、スタッフたちと交 流したり、仕事をして、その驚くほどの不勉強、知性の欠如、自 分を磨くこと(知的に)に対する怠慢さにしばしば唖然とし、絶 望的になった90年代の実感。

その分、海外では救われることがしばしばだった。舞台人はたと え若くても教養人であり、知識人でもあるし、学生でも対等に議 論が出来る。自分の考えをしっかりと持っていて、その裏づけを 言葉で伝えられる。要するに芸術家としての自覚と精神的、知的 自立がきちんと形成されている。

「自分の考え」は日本人の若者もあるようで、しかし「その考え の根拠は」、と問うと全くあとが続かない。「いや、何となくそ う思う」だけだ。この調子で最近は何となく若者は右翼気分、な のだろう。右傾化が顕著なのと思考力の欠如はパラレルである。 思考が欠如し、学ぶべきことを学ばない人間が増えたとき、国は 滅びる。

とりあえず昨日の「シアターファクトリー」のワークショップで 新人組(20歳〜21歳の若者)には、20世紀の傑出した演劇 人、書物に関して調べて置くようにと宿題を出す。アルトー、グ ロトフスキー、カントール、ピナ・バウシュ。だいたいこのレベ ルのものを演劇に関わろうという人間が名前すら知らない、とい うのが唖然とする。絵を学ぶのにピカソもカンデンスキーもゴッ ホも聞いたことがない、と平気で行ってしまうようなものだ。 が、それが日本の演劇の世界の実態である。

2006年9月18日
『アンチゴネー/血』の通し稽古も今日で7回目。

今回の舞台の完成度はかなり高い、良い作品が出来た、と何故か 小屋入り前にして、気が楽になっている。新しいテラの代表作に なるだろう。

新メンバーのテラで活動を始めて5作品目。ようやく思うことが 思うように出来る集団になりつつある。技術面でも思考面でも。

自分が単独で構成・演出をするのは、前回上演の『イグアナの 娘、たち』に続いて2作目。正確には『アンチゴネー/血』を最 初に試演したのは、2004年9月の実験・創造工房で、『イグ アナの娘、たち』は2005年4月に最初の試演だから、「アン チゴネー」が7年ぶりの「日本復帰」第一作(テラ・アーツ・フ ァクトリー公演として)、と言っても良い作品だ。


通し稽古も今日で7回目。
通し稽古によって、全員が作品全体を俯瞰できる。今回の作品は 現代日本の社会の基層の問題を、一つの切り口から鋭く俯瞰した り、再考する契機を与えるものになっている。

今日の通しでは、作品の柱、芯がしっかりしてきた感じで、太い 幹が舞台を支えている感じが伝わってきて、見終わった後、強い 手ごたえを感じる舞台になっていると思った。象徴性や暗示に富 んでいる分、わかりやすくはないが、決して難解でもない。誰で もが共有できるものである。演技やパフォーマンスも楽しめるか ら、見飽きないように出来上がった。

あとは観客がどれだけそれを持ち帰り、「そこ」から思考を発展 させてくれるか、それ次第だろうが、上演側としては十分、観客 に仕掛けられている「能動的」で、アクティブ(観客席側に関し て)な作品になっていると感じた。

抽象度の高い語句は、感情やテンションで入り込めたりする芝居 のセリフに比べ、はるかに演技者の力量が問われる。

通しを繰り返し重ねることで、演技者個々が全体を俯瞰し、それ ぞれがキャッチしたものを背景に、もう一度冷静に個別シーンの 「位置」を把握し、そこから個別演技や発語、身振りへの〈態 度〉を明らかに出来たとき、舞台は演技者個々の「意思表明」 (コメント)の場となりうる。その〈態度〉の強度こそ、作品の 強度だ。だから舞台は演者次第、演者が主体であり、そこまでき て初めて演出家や作家のものでなくなり、演者と観客が作り出す ものに「変成」されるのだと思う。かなりそうしたものに近づい ている。自信を持って、観客に提示できるものに何とか仕上がっ た。

2006年9月21日
最後の通しを終えていよいよ小屋入り。

今回の出来はこれまででもサイコーと勝手に自負。 前回、前々 回作を見た観客は、今回の作品を見ることで、 前の作品も更に 見えてくるものがあり、更に面白いのでは。

で、観客用資料を書く。演出があれこれ書と、 舞台を説明して しまう可能性があるから、あくまで「主張」は舞台で、資料では 参考程度と思い、 何を書くか悩んだが、やっと書けた。

タイトルは「死者を弔うのは誰か」、気づくと4000字の小論 文になった。まあ、作品を作り始めるまでの経緯に関しての記述 で作品内部には触れていないので、いいだろう。

アンチゴネーは法を巡る議論の劇である。人為法(国家の法)と 自然法の対立の劇。

それを参照しつつも、現在の我々の社会(日本)を取り囲む問題 を主題に、一つの切り口からかなり意表をつく展開で深入りす る。

この舞台はみな再演して行くつもりいる。稽古場の雰囲気もい い。作品がつまらないとまず最初に出演者が醒めてしまうのが現 場だ。今回は、もうみな再演する気でいる。好きな作品になった のだろうし、良い作品だという手応えが強くみなぎっているから だと思う。

稽古場に何人かの擬似観客を呼んで見てもらうが、みな一様にす ごく面白い、深いけど楽しめる、これまで以上に作品の拡がりを 感じる、などと絶賛。

残念ながら、時期的に(連休でもあるし、夏最後の終末だろう し)数ある舞台に埋もれて、今回、見に来る観客はわずかに過ぎ ないだろう。

が、良い作品をうずもれさせたくない。観客に触れる機会を作る 努力はこれからのテーマでもある。自信作は繰り返し、やるしか ないだろう。

繰り返しに耐える作品になった。題材は普遍性があるし。

2006年9月24日
今日の夜ソワレー公演でやっと初日が出た感じ。途端に、観客の 反応はかなりうなぎのぼり。

問題だったのはテクニカル面。
シーン3の女性陣による動作表現の背景で、パラレルに中高生の 自殺サイト(出演者によるテクスト創作)が淡々と読まれるシー ン。本来は、演技者と平行して、読み手が深夜番組のディスクジ ョッキーのように語る(試演会版)予定だったが、狭い小屋の中 でスペースが取りずらく、背後の幕裏で語ってもらうことにした のだが、スペースの音響とマイク自身の音質の問題、更に語り手 が喉を痛めて、声がかすれ本来の魅惑的な声(内容が自殺なの で、声が陰湿でないほうがよい)が、ちょっとつらそうな声にな っていて(声を出すのが難儀ことによる)本来の効果が狙えなか った分、演出的には頭を抱えたのだが、声も今日の夜には少し回 復し、マイクの音質も何とか調整でき、するととたんに、このシ ーンもよみがえった感じで、 丹念に構成面で練った作戦通り に、全体が運んだ。

声、質感、動作表現、言葉、構造、「アンチゴネー」世界との間 合い、非演技的演技、行為表現、アルトーの引用、これらの計算 の歯車が合って、今日のソワレーでやっと演出的に満足できる舞 台になった。途端に観客の反応も更に良くなる。

演技者に関しては稽古場で十分、演出の意図が浸透できるがスタ ッフワーク(照明とか音響とか)は小屋に入ってからしか出来な いから、演技や演出との調整に手間取る、こういうタイプの舞台 はここが難しい。

これまでは、スタッフ関連が舞台と一致してくるのが、やっと最 終日の最後の舞台辺り、そこまで直しに直し、説明に説明をし、 くたくた状態、それでも満足行く状態に行くのは難しく、演技者 陣の奮闘が十分生かされる前に公演が終わる、感じだったが、照 明の福田さんも今回は二日目でほぼ演出の希望とのずれを修正し てくれた。

これから一ヶ月のロングランなら、尻上りに出来も評判も良くな るのだが、そこは悔しい。


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