|
今日は、稽古というより、みんなで構成を考える。
「子供たち」の「自殺志願者の掲示板書き込み」(正確には10
代の自殺者、自殺志願者の発言を参照し、メンバー全員で書き込
んだテクスト)を増やす。2004年に、実際にメンバー内で掲
示板を立ち上げ、そこで書き込まれた発言は膨大な量になり、そ
の中から特に選択したものを使用している。今日は前回版で使用
しなかった5つを加え、9つの掲示板を使用することに決まっ
た。順番(構成)も決まる。
シーン2にギリシア悲劇の登場人物アンチゴネーにまつわるテク
スト引用を使用する予定で、『テーバイ攻めの七将』を参考に論
議するが、物語の方に観客の目が行ってしまう恐れがある。それ
では、主旨が違ってしまう。「物語」芝居を今更、やるわけでは
ない。
作品の柱は「子供たち」の掲示板発言に現れた自殺をしようとす
る背景、その言動の表象の根元にある私たちにとっても「見えに
くい欲動」の部分であり、だからそれは<他者>性を持ち、そこ
とどう関わるか、関われるか、がこの劇の(私たちの劇行為を通
した)主題でもある。そういう「関係」の場として彼らと呼応関
係に入る「女性(OL)たち」を舞台上に設定した。「OLた
ち」は年齢的にも立場的にも自分たち(演技者)に近い存在であ
る。身体を前面に打ち出しながら、身体の側から<他者>性を持
った子供たちの発言(もちろんテクストは創作だが、共犯関係的
に作成されてはいる)としてテクストの「声」の部分に関わりを
持つ、そういう構造を取る。
|
|
|
|
|
『自殺の思想』(朝倉恭司著)読む。
「諫死」というのが昔、武士の時代にあった。自分の生をどのよ
うに使うか、活かすか、それを決定できる自由があった。責任は
自分が引き受ける、その覚悟の上での上司や支配者への死(生)
をかけた諫言。近代は「自殺」をよくないこととし、道徳やモラ
ルの問題にしたわけだが、むしろこれは、人々の死生観まで国家
が管理する、という事態とも言える。オランダ滞在時に「安楽死
法案」の論議と議会での可決を経験した。自分で自分の生死の決
定をすることが限定的だが公的に承認されたのだ。このことをど
う捉えればよいのか?いかに生きるか、はいかに死ぬか、と同義
に考えるべきものだと思う。
|
|
|
|
|
昨日の稽古の後、演出補の藤井と帰り道の「道中」雑談あれやこ
れや。その中で、彼女から今日の稽古で思いついたアイデアを試
してみたいとの要望が出る。よし、じゃあすぐ試してみよう、と
いうことで、今日は彼女達に稽古場を明け渡し自由にやってもら
う。で、終わり頃にそっと稽古場をのぞいてみる。シーン2
(「OLたち」の身振り中心シーン)に関して。「OLたち」が
途中から「掲示板」の発言に対して、呼応的に音節分離的発語を
し、重奏(重層)させる。次第にギリシア悲劇テクストに「スラ
イド」する。これは方法的に面白いと思った。もっと発展させて
みようと促す。
|
|
|
|
|
終日『アンチゴネー/血・U』のプランを練る。今回はテクスト
の再構成に関して。シーン構成の大まかな構想は固まった。で、
今度は使用するテクスト。前回のものを再構成する必要がある。
考えが行き詰まり、気分転換に歩く。散歩が思索の一番の潤滑
油、になっている。
ちょっと話題を変えて・・・・、貧しい田舎の少女達に教育を受
ける機会を作ろうと奔走するトルコの女性医師の話を知る。ガン
と闘い、限られた時間を人々のために役立てたいと必死だが、ど
こか目前の自分自身の死に対して泰然としている。
個人的体験を少し。1996年のペルー公演まで、無理が平気だ
った。が、日本大使館占拠と重なったペルー公演直前、無理に無
理を重ね体調をくずしてしまい、その際、先方が処方してくれた
薬が日本人の体質に合わなかったらしく薬物中毒を引き起こして
しまった(からだの解毒機能が壊れた、ということらしい)。そ
の後遺症で風邪薬や鎮痛剤に入っている物質の解毒作用が不可能
となり、そのためこれらの薬を飲むとショック状態になる。
その後、いろいろからだに不調が出て四度ほど体調を崩し、その
度に病院でガンを疑われ、いろいろ検査を受けた。さんざん調べ
て結局ガンでないという結果が出るまで、長いこと長いこと。さ
すがに覚悟を決めた。何でもないのを知った時は、妙なことだが
命を拾った気持ちだった。
そういう経験をすると、自分の生は有限である、時間は限られて
いる、という意識がそれまで以上に強く芽生える。
せみは七年幼虫として地中に住み、せみになって一斉に夏の樹木
の間をにぎわし子を産んで死ぬ。地上の命は三週間であり、われ
われはそこに「はかなさ」を感じるが、哺乳類が生まれてからの
時間を人間の一生に換算すると、一人の人間の命はせみの二百五
十分の一でしかない。せみが三週間の命なら、一人の人間の命は
一五分ほどにすぎない(類としての哺乳類の「一生」からみ
て)。これを「はかない」といって、言いすぎだろうか。
生きるということには二つの意味がある。一つは個体としての
生、もう一つは類としての生。人類は哺乳類の一種で、類は代を
重ね、環境に適応しながら初期はねずみのようなものだったもの
が、長い時間をかけて現在の人間も含めた多様な形に変化してき
た。個体は一代で消えるが、生殖によって類としての生命は存続
される。
人が生きること、その意味をもう一度問い直す思考の場として
『アンチゴネー/血』だけでなく、テラ・アーツ・ファクトリーの
公演に関連する諸作業がある(自分にとって)。
さて、『アンチゴネー/血・U』、「子供たち」の「自殺サイト
掲示板書き込み」が基盤テクストである。三年前に初演し、昨
年、再構成してテラでの公演を果たした。その間に集団自殺が相
次ぎ、今は自殺サイトで知り合った委託殺人が話題になってい
る。が、テラの『アンチゴネー/血』は別にキワ物芝居ではない
し、話題になる前から追求している題材である。生きること、死
ぬこと、自分の体験と重ねながらの思案。ううん、またまたうな
りねじれる一日。頭がやかん状態。
|
|
|
|
|
2001年に中学生たちとひょんなことから芝居作りをすること
になった。正直言って、「子供」(ガキ)は苦手だった。が、次
第に彼らの「内面」と関わりを持つようになり、特に中学二年生
の小説を書いている子と親しくなる。彼女の小説は「死」が主題
だった。それも子供によくある浮ついたものではなく、かなりの
確信犯、異様でグロテスクな世界だ。小説の感想や、芝居作りの
要になってもらった関係もあったため、彼女と毎日のようにメー
ルのやり取りを重ねる。二人の関係を心配した親御さんに会いに
まで行った。そのメールのやり取りも今回の創作テクストの参考
になっている(彼女はいまシンガーソングライターとして大手音
楽会社の専属となる。当時から際立った才能の持ち主だったか
ら、これから大いに活躍するのではと思う)。
|
|
|
|
|
公演40日前。作品創造作業は予定通りに進行している。
流れ(構成)がかなり出来てくる。頭から50分くらいまで、三
つのシーンのうち、二つ目のシーンの中半までのプランが固ま
る。まず「構成」=編集が第一の現場作業である。構成案を幾度
か試してみながら確定して行き、それからテクストを暗誦する、
という流れ。「作家」が現場自体、演出と演者だから、こうな
る。「劇作」をするのは集団。わたしたちは通常の芝居で言う
「上演台本」を稽古場の中で、大雑把に見当をつけながら試し稽
古を重ねて作成してゆく。だから「劇作」主体は集団である。書
き手は複数いる(いやほぼ全員書く)。私もテクストを書く。だ
が、それらは劇の要素の一つに過ぎない。照明も、演技者の身振
り動作も、更にもっとも大切なのは演技者が時間をかけて形成し
てきた体技(「虚構の身体」という言い方もあるが)も舞台の表
層=テクストである。体技(私たちは「閊(つか)える身体」と
いう。それは始めからツカえている、あるいはツカえをひどくす
る、のではなく、まず普段の身体がツカえている状態にあること
を自覚する。それを一度<ニュートラルな身体>に戻す。そこか
ら再構成してみる、という作業プロセスを経る)は劇の軸であ
り、中心を形成する。身体の表層は動きとして見えるが、その深
層、無意識はよく見えない。身体を問題にするのは、私たちがこ
の「見えないもの」をめぐる演劇を考えていることにもよる。
|
|
|
|
|
<集団創作>に関する考察
俳優が演出家に質問する。
「演出の意図は?」「演出は何を伝えたい(観客に)のか?」
あるいは作家は何を伝えたいのか?でもいい。
では、俳優は演出家の道具か?演出家(あるいは作家)という一
人の人間の脳の中で考えている思想や概念を大勢の人々に伝達す
るための。
上演(演劇)は作家の思想を伝えるための道具、あるいは補助機
能か?
「私」の考えを提示する場が演劇ならば、演劇は私個人の表現活
動の場である。俳優達はその道具である。はっきり言おう。しか
し、そうは思わない。集団で形成する表現である演劇は必ずしも
自分の意図通り、思惑通りに行かない。いや、自分一人で考えて
いる時の思考の枠を軽く飛び越えてしまう。思わぬ発見が続々と
出てくる。そのため公演を一回やるたびに学ぶ。だから面白いと
考えている。稽古場で形成されつつある作品は、私の(思考、概
念、脳)の一部ではなく、あきらかに<外部>になっている。<
他者>である。それを自覚して、一生懸命、稽古場で日々起きて
いる現象を読み解こうとする。その過程が作品創造の過程であ
り、私一人ではなく、複数の人間がある時は深く、ある時は殆ど
無縁のように、しかし確実に影響して関わり、この<読解>作業
を操作している。私は<操作>されている。この関係、この状態
が面白いと思う。自・他が有機的、重層的に関連しあう場を自覚
的に組織する。それを<集団創作>システムと呼ぼう。
<集団創作>とはシステムである。ここでは「劇作」は劇作家の
専売特許ではなく、劇作主体は集団であり、「劇作家」という一
個人ではない。そもそも演劇が集団の作品であるとするなら、劇
作家は集団以外にはありえない。結果として「戯曲(作品)→演
出(解釈)→俳優(代行)→観客(受け手)」という縦のヒエラ
ルキーを否認することになる。だから<集団創作>スタイルで
は、演出は稽古場で創造されつつある集団の作品の読解、批評は
するが、俳優の上に立つ者ではない。演出はアドバイスをすれば
よい。「上演=作品」であり、俳優も演出もともに作品作りに携
わる共同作業者である。それはテクストが<他者>であり、作ら
れる「上演=作品」(これに観客が加わって演劇となる)が<他
者>であることを保障するための方法なのだ。
|
|
|
|
|
作品の根幹をなし、基底部を形成する軸として措定した<脱ぐ>
というコンセプトが、ようやくテクスト(言葉)サイドの二つの
柱、10代の自殺者・自殺志願者の発言を再編集した「掲示板」
テクストと、もう一方の柱であるギリシア悲劇の『アンチゴネ
ー』テクスト改作部と固く連結した。単なる趣向であっては駄目
だ。新しいことをめざしているわけではない。
舞台上の行為(アクション)の動機、裏づけ、それをひたすら熟
考し続けた。ここ一ヶ月の稽古では、相当量の思考を繰り返し、
時間を費やした。稽古をし、家に帰って今日稽古場で見たこと、
感じたこと、起きたこと、行われたことを反芻し、そこから作品
の根底にある(べき)もの、表現される/意味されることを待ち
望んでいるもの、を探り当てる作業。
次々に新作、新しいモード、新しい商品、新しいトレンド、新し
いファッション、新しい携帯電話、新しい車が押し寄せる。その
時流の渦に抵抗する、ツカエル、そういう身体の演劇をめざす。
大量生産大量消費の欲望を刺激する「進歩社会」の中で翻弄され
る小船のような日本の演劇世界も新作という暗黙の強制システム
が作用している。新作ばかりが無尽蔵に大量生産、大量消費され
ていく。こんな演劇現象は世界広しと言え、日本(東京)だけ
だ。他の国では新作(戯曲)は数えるしかない。現代演出こそ、
新作<上演>作品なのである。
|
|
|
|
|
自問は続く。
今回の『アンチゴネー/血』ではいったい、どれくらい自問した
であろうか。それを文章にするとかなりの紙数になる。『アンチ
ゴネー/血』の卒業論文が書けるほど(笑)。
まあ、まだ卒業はしていないが、この舞台で何故、アンチゴネー
なのか。はっきり言って厄介な重しでもあった。その分、ずいぶ
ん考えざるを得ないはめになった。そもそも彼女の名を作品名に
冠したのは直感からである。では、その直感は何に根ざしている
のか?単なる思い付きに過ぎなかったのか、もっと根深い理由が
あったのか、それを探る作業が繰り返されてきた。自分の無意識
の欲動を探り、自己批評していく作業である。
アンチゴネーとの出会いは30年前、大学のフランス語の授業で
アヌイの戯曲が取り上げられたとき、その勢いでアヌイの『アン
チゴーヌ』を読み込んだのが、最初。
それから十数年が経ち、ギリシア悲劇を研究し始めた1990年
代中ごろが次の契機。その時はむしろ『トロイアの女』などに登
場するカサンドラに惹かれたのだが、それから十年を経て、アン
チゴネーに再会した。そして、この子供たちの自殺を巡る発言を
契機とした舞台に何故、彼女を引き合いに出したのか?それをひ
たすら思考し続けてきた。
|
|
|
|
|
一回目の通し稽古をする。
今回は、複数のテクストが入って、しかしよくわからない「実験
劇」ではない。一本の幹があって(俳優の身体)、それによって
劇は支えられ、ラストに一気に向かってゆく。<アンチゴネー>
とは何者か。それは見る観客によって多面的な相を、層を持ちう
る「何か」。その「何か」の強度が凄く強い舞台になっている。
で、この「何か」だが。。。。。「何か」としか言いようがな
い。言えるのは、それを「どういうつもりでやるか」(表現の根
拠)、「どういうふうにやるか(方法)」、そこは万全だ。はっ
きり言語化できる。しかし、やることはあくまで「何か」をめぐ
ってである。それは見てもらうしかない。
|
|
|
|
|
二回目の通し稽古をする。
舞台(演技者の複数の行為の連鎖)の行為を支えるテクストとそ
の特殊な技法(前半は叙事〜3人称語り的発語、後半は吃音的発
語、複合主体による発語)での発話を通じた言葉と身体の相互関
係の運動の中で見えてくる「見えない」もの。それを今日は出来
るだけ、外野席、一観客の目で読み取ろうとしてみた。
舞台で起きている現象の数々ー俳優の身体動作、配置、照明、複
数の書き手による現代部分のテクスト、二つのギリシア悲劇から
の引用部分のミックス、これらの「データ」の再構成、によって
生み出される多層的な行為の連環の表象の奥から見えてくるもの
「見えない」もの、それを今日は俯瞰的に読み取ろうとしてみ
た。
「アンチゴネー」に関しての考察
ソフォクレスの『アンチゴネー』はテクストだけを読み取ると
(かつ現代人の目で見ると)、主役はクレオンであるし、アンチ
ゴネーはただ強情をはっているように思えたりするが、どうもそ
ういう視線で見ていること自体が、わたしたちの「近代のものの
見方の枠組」を照らし出すような気がする。アンチゴネーはそれ
を逸脱して、超越的な存在であるような気がする。古典テクスト
の中では出番は中途半端だし、中半くらいでフェイドアウトして
しまい、あとはクレオンとその息子の対立と息子の自殺、更にク
レオンの妻の自殺という風にクレオン自身が打ちのめされてゆく
悲劇なのだが、そうであればあるほど、アンチゴネーはそこから
逸脱しているものを直感させる。読解の視線そのものが「近代」
の拘泥を表出させる、そういう存在なのだと思う。自己批評的に
見れば、自分の目(近代を制度として引用した社会で教育を受
け、生きてきた中で育くまれた視線)が持つ限界が逆に映し出さ
れて来る。そこから舞台の表出、構成を考えたいと思ってきたの
だ。その結果をいま目のあたりにして、何が見えるか・・・・。
|
|
|
|
|
『アンチゴネー/血・U』をめぐる思考
シーン1:OLたちの自分の「手首」の発見。道具の一部(労働
/消費の道具)化した身体の発見→労働の道具としての手、無意
識の存在が意識の下に入る。そこからシーン2の動きが始まり、
「光の檻」の中の世界に通底共鳴してゆく。
「光の檻」とは、「掲示板」の発言者の世界。自殺に追い込まれ
たり、自殺をした子供たちの声とコトバ・・・が聞こえる場所。
ここで、「子供たち」とは14歳くらいを想定している。サカキ
バラの14歳、子供から大人への通過儀礼の年頃・・・。戦後の
日本は「通過儀礼」を無くした、その結果、主体/責任なきオト
ナコドモ社会と化した、という認識が前提にある。「14歳」は
オトナコドモのまま過すか、主体の確立をめざすか、分かれる場
所でもある。
これが<アンチゴネー>なる「何者か」を舞台に呼び込む場とも
なる。『アンチゴネー/血』はその背後にある「大きな物語」、
神話や伝説などを形成する伝承、口承など語りものに通じてゆ
く。無数の民衆による伝承、その中で形成された人物がアンチゴ
ネー。ソフォクレスはその人物像を元にプロット(筋立て)を再
構成した「一作家」にすぎない、と見ることも可能だ。アンチゴ
ネーは近代文学の「作家」と「作品」の関係のような、作家によ
るオリジナルの人物ではない。
それは超越的なもの(根源的なもの)とのつながりをもつ。多く
の民衆が伝承し、口承し(支持し)、それが共同体(社会)に必
要なものとして継承された。その前提に立つことで、ギリシア悲
劇は、ギリシア社会そのものの存立と関わるイベントとなりえ
た。あるいは共同体(社会)に必要な祭儀、イベントの中で演じ
られた、ということからこういう伝承の人物が劇の中軸となった
とも言える。
<閊(つか)える身体>によって、この「伝承」された人物の根
源部分(存在理由)にアクセスしようと試みる。身体がその深奥
の時間を顕すことで次第に繋がりを持ち始める。「見えない」も
の(実存を支える・・・生きている意味、世界の意味)と触れ始
める?
|
|
|
|
|
演出家(のような者)である私は、しかしどなる、ものを投げる
ということを基本的にしない。静かに話す、やわらかい物言いを
することを心がけている。
出来るだけ、可能な限り言葉にして、説明をする努力を(それで
も言葉足らずだが)することにしている。無理矢理、理屈も言わ
ず「つべこべ言わずやれ」は演出家として反則だと思う。それは
彼の未熟さ、演出としての表現能力の欠如(役者は身体で、実際
の演技表現で語ることも可能だが、演出家は言語でしなければ演
出とは言えない)、概念化する力の欠如だと考えている。
今日、通し稽古をして、どうしても引っかかるシーンが出て来
て、一晩中、ビデオを何度も回し、台本を何度も見て、明日の稽
古での演出の工夫の提案、構成の若干の手直しや言葉で指示する
アドバイスなどの文言を考えた。
演出の一言は相手に立ち直れないくらいのダメージや傷を与える
ことがある。演技者は自分を晒してそこ(舞台)に立っている。
さらけ出す事、暴かれることのある種の「恥」に耐えている。だ
から、言おうとすることをストレートに言ってはならないことも
多い。言葉を選び選びしながら、デリケートにそれでいて、相手
にきちんと通じるように話さないとならない。
そんな毎日を送っていると、さぞ能弁になるだろう、と思われる
かもしれないが、いつまで経っても口下手な自分は、言語能力が
つくづく貧しい、と情けなくなることがある。でも、いや、だか
らこそ、口下手なりに、たどたどしいなりに言葉で他人に説明で
きることはする、そういう努力をしたい。だから現場で起きてい
ることを理論化(なんて偉そうなものじゃないけど、少なくとも
自分が何を信じてやっているかくらいは言語化したい、と強く念
願している)したいと思い始めている。ずいぶんオクテだけど。
テラ・アーツ・ファクトリーは女ばかりの集団だから、着替えの時
とか、生理の時とか、荷物運搬の時、仕込みや立て込み、いろい
ろと普段自分が想像しない難しいこと(男ゆえ)に出会う。
まあ、長いこと主夫(仕事持ちながら家事一切引き受ける)生活
経験して、トイレ掃除、流しの掃除、部屋の掃除、洗濯一切、炊
事調理(公演近づくともう不可能だが)、食料買出しと、一般の
職業を持ちながら家事をする女性と同じ(子育ては経験ないか
ら、そのタイヘンさはわからないけど)生活条件を引き受けてき
たから、そういう面はわかるのだが、やはり身体能力の差とか生
理の時の不快感とか、どうしてもわからないものがある。
私はフェミニストではないし、テラ・アーツ・ファクトリーもフ
ェミニズム集団ではないが、女性が会社や職場でどういう状態に
あるかは、身近の者からいつも実体験として聞かされている。だ
から、この男中心社会には少々不快感を抱いている。その程度の
ことからではあるが、テラの題材は、「男性原理」問題やジェン
ダーをまな板にあげつつ、でもそこが「敵」の本丸とは思ってい
ない。「男性」も抑圧されているのだ。いや、人全体が抑圧され
ている構造を持っているのだ。それは多層的である。
その一つの層は「近代」の問題であり、更に日本の場合、ヨーロ
ッパとは異なる「日本のねじれた近代」の問題がある。更に家父
長制の残滓も実は根深くあり、儒教の影響(韓国ほど大きくはな
いが、ないわけではない)もあるし、戦後日本の問題もある。戦
後日本の、とは「大人」になる(主体形成/責任主体)「通過儀
礼」を欠如した社会を作ったこと。これは戦争責任の曖昧化とも
関わるし、アメリカが政策的に「日本去勢化」を戦後意図したこ
とにもよるし、保守政治家がそれを利用しながら、延命してきた
ことにもよる。結果として、社会全体が「オトナコドモ」化し
た?
稽古場のある文化施設で「全国青少年大会」が行われていた。
「健全青少年育成者表彰」などとあったが、「健全」とは何を指
しているのか?大人自身が不健全な社会で、どうやって青少年だ
けに「健全になれ」と言えるのか、などと苦笑してしまった。
|
|
|