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稽古後、藤井らメンバーと新宿で会合。
今日は演技陣中心で稽古を進めてもらう。で、その進行状況の確
認。<集団創作>を進める場合、演出家は「稽古進行係」である
必要はない。<集団創作>における演出家の役割は全体的な作家
の位置と<集団創作>をスムーズに進めるための土台、グラウン
ドデ ザインを提示する役割を持つ。その後はある程度演技者サ
イドが基本プランを加工したり、より自由に展開してみる。それ
と並行しながら 演出は時には前面に出て、時には背面に立って
補佐する役割をする。<集団創作>の演出家は構成作家であり、
編集者でもある、という次第。
『ジュリエット/灰』はそんなわけでまだ現時点ではどうとでも
なるし(その分、予測は立てにくい)、演技者は作品創造レベル
で主体の位置 を確保できる。が、そろそろちらしのデザインを
考えなければならない時期。まだ出来ていない作品を文言で紹介
するのは一苦労するのである。戯曲のある芝居なら、取りあえず
筋さえ書いておけばそれで十分だが、テラの舞台はそうは行かな
い。ストーリーを再現する<再現型>舞台ではない。パフォーマ
ンスに通じる<現前型>舞台だ。今回は特に「シュール」にそお
なりそう。ライブハウスで上演するようなものにしたい。
そんなこんなだが、演技者がより積極的に「提案」できるように
するにはどうしたらいいか、藤井とない知恵絞る。みな、よく言
えば「謙虚」、 どっちかと言うと「受身」型が多い女子ばかり
の集団テラ・アーツ・ファクトリーは女性集団ゆえの困難さがいろ
いろあるのですよ。いやあ、難しい。人は支配されるのを本来好
む生き物だからして、自分が「主体」になるって、それを集団の
メンバーに求めるって言葉で言うほど簡単じゃない。いつもこの
困難さと向き合いながらの<集団創作>スタイル、ひょっとして
無謀なことをやっているのか。いや、そんなことはない。理想な
くして何の・・・・。愚直に理想を、もちろん地に足つけて現実
的なことを一つずつクリアーしながら、一日一歩・・・。
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テラ・アーツ・ファクトリーな日々
今日は日曜日。土曜日曜と久しぶりに予定のない週末。連休前だ
し家で過ごすことに。で何をしているかというとまあ、結局仕
事・・・。
そんな週末の悪戦苦闘のかいあって『ジュリエット/灰』の公演
仮チラシ、ようやく出来あがる。修正を少し加える程度の予定だ
ったが、掲載写真なども含めてデザインをいじってしまい、デザ
イン修正だけでまるまる一日かかってしまった。でも、本ちらし
にしてもいいじゃんって仕上がり。取りあえず、いつもご用達の
印刷所に持ち込む。
一緒にシアターファクトリーのほうの新しいワークショップ参加
者募集チラシも作成してしまう。。これはおおもとのデザイン、
レイアウトから 始めたから土日とまるまる二日はかかってしま
った。長年の研究の成果である訓練方法の新しい名称「Fメソッ
ドブランド」を外部に知らしめて行こうとのことで始めた宣伝活
動なので、載せる文章などを慎重に選ぶ。こっちはデザイン能力
より編集能力勝負か。
結局、なんだかだ言ってこういうデザインしたり編集したり、っ
てのが好き、これに尽きるんだろうか。「シアターファクトリー
会報」やのちの ちの小冊子化、記録集作成など自分の手で出来
る範囲で編集を手がけて行きたいとか思っている。デジタル化全
てがいいとは思わない が、ちょっとした記録集作成印刷発行な
ど、昔は素人がやれるものではなかったものが、今はやろうと思
えば出来る。そこはコンピューター時代のいいところだ。
テラ・アーツ・ファクトリーも面白いのは上演ではなく(自分にと
っては)、日々の稽古場で少しずつものが生み出されてくる、そ
のプロセ スが何といっても我慢がいるが思わぬものが生まれ出
てきたときは感動する。誕生に立ち会う気分って感じ。その「創
造工程」を反映させた記録を作りたいなあ、ということもあって
記録集作成を考えているわけである。
今は30年の演劇的経験、試行錯誤、苦心惨憺の蓄積を経て、も
っとも創造的な現場状態を作れるようになってきた。こういう稽
古場内のこと、車で例えれば一台のそれまでの「ガソリン車」と
は異なる「電気自動車」が誕生するまでの秘話、みたいなものは
決して「おもて」には出ないが(市場に出るのは完成され、商品
化された「結果」だけだから)、その研究と実験、試行錯誤、製
品が生まれるまでの過程こそもっとも充実した「揺籃期」でドラ
マチックでもある。
テラ・アーツ・ファクトリーの舞台や活動、シアターファクトリー
の活動はCO2を大量に出す「ガソリン車」ではなく環境破壊時
代の「エコカー」、未来に向けて何らかのともし火を小さいなが
らもしっかり点灯させる何かになる、そういうものだ。だからそ
ういう動き方をしたいしそ のプロセスを出来る限りの方法でカ
タチにしようと計画している。上演はもうさんざんあっちこっち
でやってきた。それはそこに立ち会ったものにとってはかけがえ
のない貴重な一瞬だが、そこにいなかった者には何の意味もな
い。
海外でやってきたあれこれはそこにいた人々にとって大きな影響
を与えもした。しかし日本にいる人々、いま劇場に集まる若者に
は知っ たことじゃあない。「いま・ここ」2008年の日本・
東京で何が面白いか、何が旬か、それだけしかない。「携帯電話
の今年の売れ筋」と舞台は何の変わりもない。それに合わせて、
振り回されていても空しいばかり。
演劇上演は業界の次から次に作られ、消えていく「消費」物の渦
の流れの中に入らざるを得ない。日本では演劇文化を受容出来る
ほどに市民社会が十分熟していない。演劇の深い歴史背景のある
ヨーロッパに比べかなり遅れている(100年は)。演劇(劇場
文化)自体も社会にとって何かの価値や意味を持つところまで成
長していない。これは日本の演劇自身の問題であるが、それを包
み込む市民社会の文化度の問題とも一体だから、すぐに解決つく
ものではない。あと100年とか200年かかるものだ。
そんなことを考えながら、いまやれることは何だろうと探求する
日々。そういう中でのテラ・アーツ・ファクトリーの創造活動、シ
アターファクト リーの活動、である。いまわれわれが踏み込
み、行っていることはそれで終わるべきものと思っていない。も
っと意味深いものがあると確信している。だから、未来に向けて
発信する。ために記録を残すと。
というかまあ、個人的には30年間、親や身内、いろいろといっ
ぱい迷惑をかけながらやりたいことをやりきった。行きたい所も
行った。泣かせた人間もいるし、そのためにつらい別れもあっ
た。もう今更何をやるか、ということも正直あるのだが、若いメ
ンバーが今は周りにいるから、自分がいなくなっても「路頭」に
迷わないように、そういう気持ちで彼らの将来の活動の基盤はち
ゃんと作り残しておきたい、という感 じ。
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『ジュリエット/灰』中後半部分の創作のための「試作品」を先
週、演技者メンバー主体で構築してもらい、今日はそれを「首実
検」。行けて る、これを詰めて行くとラストに向けて展開しそ
うだ。
その後、S1(シーン1)を久しぶりに試演。今週から具体的な
スコアー を作成し、固めていく予定。まずは言語テクスト(短
句フレーズ)の順 列を決める作業を先行し、使用する言語テク
ストの配置、配列を決め てから人の出入り、移動、配置を即興
的な稽古の積み重ねで徐々に あるべきところに落としていく
(スコアー化する)予定。
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編集したテクストを使用してシーン1(S1)を試す。時間の割
り振りを細かく決める。S1は20分くらいの目処。S1が出来
ればS2、S3も出来ていくだろう。テクストの短句はS2、S
3でも使用する。主線が*月+日、と時系列から離れた時と分の
単位を。指示する内容・対象(O)の欠如、あるいは非明瞭な状
態から出発する。
記号(ことば・シニフィアン)の指示する内容(シニフィエ・意
味)の欠如。記号と指示内容の関係の混濁、緊密な関係の欠損状
態にある世界。
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やったあ!(これ最近多いなあ)、ついに締め切りぎりぎり、間
に合う。冷や汗・・。
テラ広報部から某情報誌編集部に行くとの事で、プレゼン用に企
画書のようなものが必要、ということを受けて文書作成係りの小
生がその任にあずかるわけだが (汗)、おかげでここ数日、頭
の中はその文章作りや構成に完全に占領される。
まず文言や文章の整理、全体のレイアウト・デザイン。で、広報
だからつまりは宣伝なので宣伝用と割り切ればいいのだが、現
在、『ジュリエット/灰』のテクスト(上演台本)作りの詰めに
入っていたところ。上演台本の言語と宣伝の言語は全く性格が異
なる。これが自己分裂、内面を引き裂く。いつものことだが。二
つの全く別方向を向いた作業を同時にやれる才能があればよい
が、ないんだもん。で、一時 テクスト(上演台本)に関する思
考作業をストップ。広報文言(他にWEB掲載用文言、ガイド用
の小冊子を同時に作成)に集中していた。他の仕事や用事の合間
でやっているから、企画書作りで日が暮れる、じゃ。
そんなこんなで劇作りのほうのプランニングやテクスト作成は先
週の金曜日から全然進展なし。たとえるなら、音楽家が作曲に集
中している最中に、その曲を基にしたコンサートイベントを開
く、作曲と同時にそのコンサートイベントの宣伝や企画進捗の作
業をするような。<作品=上演>となって創造と発表が一体とな
った テラの演劇では、この矛盾(アーチストにとって)する二
つの作業、製造と営業宣伝という別部門の仕事を必然的に同じ者
が担当せざるをえないという矛盾に引き 裂かれる。
大劇場や組織の大きな劇団なら分離して分業化しているのだが、
テラのような小さな集団はそうは行かない。むろん、そこがいい
ところだと思ってもいる。身の丈、手の届く範囲でやる。これが
テラの基本姿勢。モノ作りにこだわるアナログ集団、で行こう、
と。
だから、結果的には宣伝やら集客やらは後手後手。で、今までは
そうしてきた。今後もそれにかわりはない。が、それでも少しは
やらないと、ということでやっているのだが、「少しは」であっ
てもその仕事が創造現場の進行と重なるとかなりクルクル。
テラの若い女子メンバーはいい感性をしているが、プロレタリア
ートだ(なつかしいコトバ)、インテリではない。知識面が不足
していて、定型的な文章表現能力がその「あふれる」感性に追い
つかない。テラ・アーツ・ファクトリーは反ロゴス(反ヨーロッパ
近代思考、反論理的思考中心主義)だから、創造作業面では問題
ないのだ が、宣伝活動にはコトバも必要。これって矛盾なんだ
けど、資本主義の世の中で客を集める(たくさんはいらんけど、
情報はしかるべき人々には届いて欲しい)にはマスコミも使わな
ければならない。
まあ、そんなこんななんだけど、でもなんか広報文言を考えてい
るうちに全体の構想もかなりクリアーになってきた。公演二ヶ月
前を切る。通常の稽古は早くて二ヶ月前からだが、はじめに台本
なし。稽古場で全てを作っていくテラにおいては、これからが正
念場。でも、今回は(も)行ける、という手ごたえは確かにあ
る。あとは、それをカタチにする時間・・・・間に合うか。相変
わらず綱渡り。
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稽古
最初にミーティング。6月は全員稽古場に揃う日が11日しかな
い。7月に入ると公演体制をあらかじめ組んでいるから、みな仕
事も空けている。そのため、今の時期は稼がないとならない。
が、創作的には6月はかなり重要な時期。特に今回はこの集団で
初のいきなり本公演。これまでは何度かの非公開試演会(実験・
創造工房)を経ての上演だったが、この5〜6年、メンバーが固
まり、集団創作の手順も上演までの流れもかなり消化されてきた
ので、また集団として動き始めたので、じっくり数年をかけて一
つの作品を作るという体制は困難。なので、今回はこのスタイル
で行くことになった。来年もこの時期に新作をぶつける。
で、メンバーが固定されてきたことで、いろいろと慣れてしまい
慣習的、因習的状態に陥るのは人間社会の「常」。自然とこの時
期、「守る」行動形態、保守保身に走る傾向に流れる。それをい
かに乗り越え「攻め」を続けるか。そこが演出の仕事だろう。演
出とは舞台上の装飾や整理だけをする者ではなく、集団の内面の
コントロールをし、集団を創造的な状態にして、結果としての上
演を成功に持っていくことに責任を持つ者のことである。そのた
めにもいろいろなアイデア(稽古の方法、集団個々人の動き方の
方向付け、稽古場の空気の創造、シーンの具体案、演技面の指
示・・・・)を繰り出さないとならない。ふーむ、ひたすら考え
る日々。
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あたまから45分くらいまでシーンを通して立ち稽古。今週で、
立ち稽古は一気に進む急展開。
今日は音響の阿部さん、今回が初めての「取り組み」。一緒に
楽 しく「取り組め」ればいいけど。稽古後に居酒屋へメンバー
ともども直行(ここのところ連日で少しくたびれ気味)。とても
いい印象の好青年。謙虚さと軽々しくない、気安くないところ、
そこが何よりいい。
それなりにイメージは提出できたと思われる。どお受け取った
か、そこが舞台を一緒に作る同志として試される「感受力」。ま
あ、だいたい初めて会う人には、人が悪いかもしれないが、相手
の「程度」を多少は測らせてもらうことにしているのだが、ちょ
っとずつ「勉強(吸収)」してもらいたい。
映像の吉本さんも来場。今回は映像を使う。80年代に徹底的
に 映像で舞台を埋め尽くし、使い尽くした者としては、単なる
「装飾」として使う気はない。そのため、映像が必要となる舞台
が出てきたら、以前一緒に仕事した吉本さんに頼むつもりでいた
が、ようやく今回それが可能な表現になったということである。
今回の舞台はボスニア・ヘルツゴビナの内戦後の廃墟の都市に足
を運んだときの「身体感覚と感触」が作劇の出発点となってい
る。
今回はからだをフルに使うので、通しての稽古を何度も繰り返せ
ない(身体の負担が大きすぎるため)。個々の場面は目を奪うも
のがあって面白い。観客も飽きずに見られる。あとは後半部、ラ
ストに向けてどこまで具体的に見えるものを見えさせるか。
わかりやすくするのは簡単だが、「陳腐」さが伴う。テラ・アー
ツ・ファクトリーの舞台は、現実世界と直対するリアリズム(思
考レベル)で、「夢ものがたり」はしない。「映画は最高の逃
避」とスピルバーグは言ったが、「演劇は現実と向き合う」のが
わたしの立場である。それゆえに、直接的な表現(具象)は避け
る。だから「リアリズム」と言っても、リアリズム=写実、再現
型、ではないという前提でのリアリズムだが。思考のリアリズ
ム、方法のアブストラク ト。つまり表現の方法、形式としては
抽象を使う。そのほうがイマジネーションが動員されやすい。イ
マジネーションが動員されやすいと、想像する楽しみが観客に与
えられる。
リアリズム的まなざしで見た現実は暗すぎる。20世紀初頭と対
照的に21世紀初頭は輝かしい明日も、幸せになる未来も想像し
がたい。今更、そんな冴えない現実を再現する舞台に、「業界的
マニア」のほかに誰が好んで足を運ぶか。生きる希望、生きる
力、そういったものを困難な現実、苦しい生の中でも「感染」さ
せうる、そういう強度、これがテラ・アーツ・ファクトリーのめざ
すもの。今回はこの考えがシンプルに反映した舞台になるだろ
う。
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新作の構想プラン、詰めの段階。もう少しだが、ここに来て足踏
み状態。いつも創作は苦しみ抜いてようやく最後まで達する
が、 山で言えば最後の難所にさしかかったところか。息も切れ
てきて苦しい。もう一歩だが、簡単には行かない。
「廃墟」というモチーフから出発した『ジュリエット/灰』、自
分自身の内面も「廃墟」化しつつある。作品と一心同体、そこを
乗り越えて何とか最後に達したいのだが。
すでに四分の三のプランやスコア(上演台本にあたるもの)は出
来ている。今日の稽古はスコアが今週出来上がったシーン3の練
習にあててもらう。稽古場に行く前にすでにぐったり状態。考え
に考え、資料を漁り、更に思考を深めた今月に入ってからの精神
疲労がピークに達する。神経衰弱はまず眼痛に来る。で、今日は
朝から眼痛に悩まされる。眼の痛みを押さえつつ、稽古場に遅れ
て足を運んだ。
人類に「輝かしい未来」を提示する希望のはずだった「西欧近代
思想」(自由、民主主義、平等、博愛、近代的自我の確立、個人
主義・・・日本が明治以来モデルとしてきたもの)は19世紀か
ら20世紀にかけ、結果として「流血」と「暴力」を繰り返し
た。ヨーロッパ以外の土地を簒奪し、その影響でアフリカは今は
悲惨そのもの。中東の混乱も遡れば、西欧の植民地支配に起因す
る。そして今や「近代思想」の到達点として人間疎外と社会的不
平等を乗り越える「希望のはず」だったマルクス主義、社会主義
も崩壊し、20世紀末から21紀初頭の世界風景は「混乱」と
「混沌」一色。新しいビジョンも見当たらず、アメリカの「帝
国」化もブッシュ の退場でイラクの混乱を残すのみ、かえって
イスラム内の宗教対立という火種を大きくした。
日本では、経済の右肩上がりが消え、「明日への希望」が見えな
い中、アキバ殺人もそうした光景と無縁ではない。こうした現在
を直視し、直面する中で創作と作品を作っているから、苦しくな
るのは当然だ。世界の「不幸」をまともに浴びて、立ち上げてい
るのだし(笑)。いや、「不幸」を笑うシニシズムや逃避するニ
ヒリズムは本意ではない。「混乱」と「暗さ」、「崩壊」と「喪
失」の現状を受けつつ、しかし今ある「生」を肯定する、そうい
うものを示したいのだ。だから苦しむ。
稽古場でメンバーの練習を眺めながら(観客目線で見せてもらっ
た、それが一番、構成者としてありがたい。作品を客観化できる
ゆえ)、見えてきたものがある。
稽古後、演出補の藤井らと打ち合わせを兼ねて、稽古場近くのら
あめん屋へ。何かしら今後の展開、残り四分の一、がクリアに見
えてきた。
だけでなく、個人的にはテラ・アーツ・ファクトリーを始めて以
来、苦しみながら試行錯誤してきた(それは内部問題ではなく、
世界観、歴史観が不透明となっていた1980年代後半以降の世
界そのものの混迷がありーー日本は消費社会最盛、バブルで浮か
れていたがーーそれをどう捉えればいいのか簡単に答えが見つか
らないゆえの自分自身の「世界観」の混沌状態があったからだ。
そのため、世界を実際に回ったり、「西欧近代」が何であるのか
肌で感じたくてオランダに住んだりした)、その苦しみの答えは
コトバではうまく語れないが、方向性と活動の前提条件は明確に
なってきた。確証が出てきた。「そこ」に辿り着くまでずいぶん
時間がかかったが・・・1980年代後半以降20年近くの歳
月・・・が、それは今月に入って、少しずつ輪郭が明らかになり
つつある。『ジュリエット/灰』創作があって思考を深め続けた
こと、テラ・アーツ・ファクトリーの再開以来、作品創造と並行し
ながらずうっと思考し続けたこと、そういう前提があってのこと
だが。何かしら大きな手ごたえを掴んだ気がする今月今夜のこの
月なり。雨空か・・・。
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『ジュリエット/灰』の稽古、面白くなってきた!
全部で四つのシーン(4場構成)になる作品の三つの場面をつな
げて通す。これでほぼ四分の三のカタチが出来たことになる。稽
古と創造作業はしばしの「足踏み」を経て一気に突き進んだ。
作品の柱となる三つ目のシーン(Sー3と称する)、迫力があ
る、見ていて圧倒される(まだ7割くらいの力でやっているが。
で、イメージも大いに刺激される。これって何だろう。何をこの
シーンから自分は感じ取ったか、を必死で探る。これがテラの作
り方だ。初めに頭で描いた目的に沿って作品を、そのシーンを、
演技者の振る舞いを目的化しない。徐々に生成されるてくるもの
と向き合いながら、自分たちの想像力を最大限にヒートアップさ
せ、形成されつつある作品についてゆく姿勢、でのぞむ。
とにかくこのシーンだけで、あれこれ解説やらセリフによる説明
は余計なお世話。それくらい喚起させてくるものがあるシーンに
なった。
稽古後、通しを見て浮かんだ自分のイメージやみなの考えなどを
聞いたりした。始めは直感的に夢に浮かんできたようなシーンを
まず立ち上げてみる。理屈でやらない。<下から>(からだか
ら、感覚から、意識の自覚できない部分から)スタートさせる。
自分自身、メンバーの中にあるもの、それを掘り起こしながら作
業を進めてゆく。つまり「発掘作業」に似ている。はじめに「あ
たり」をつけたところに宝物が必ずしも埋まっているとは限らな
い。失敗を何度も繰り返す。でも、その「失敗」は悪くはない。
「失敗」こそ、次につながる。だから上演のための稽古をスター
トさせてから、いまの段階に来るまで(今回は1月からスター
ト)、長い時間がかかる。
そうやってじっくり、というより「失敗」を重ねながらも少しず
つ前進してきた、それが今日の稽古である。
今回はポップなコトバ(短句と称する、テラ独自の作劇法で作り
出している)が次々に飛び出す。指示対象性を持たない言語(詩
で言えば、20世紀初頭のダダやネオ・ダダ、そしてポップとい
う流れにも通じる)がめくるめく、更に対象(内容)を代行する
ためではないシニフィアン(記号、つまり言語と身体・演技者の
身振り、発語行為)の独自性を積み重ねる創作スタイル。シーン
の作りは一言で言うと「シュール」、構成はモンタージュ的。新
テラ・アーツ・ファクトリーになって試行錯誤を重ねた一つの到達
点がここにある、そんな作品になりつつある。<下から>作る、
というのがテラの基本作劇態度。頭からではなく、参加メンバー
全員の感覚と知覚が稽古場でせめぎ会う中で揺れ始める、その
「揺らぎ」の中から生成されてくるものを記述する行為、それを
上演形式に結合させようとするものである。
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週末、自転車で参宮橋の稽古場に行く。
夜は駒場アゴラ劇場で「岸田理生アバンギャルド・フェスティバ
ル」の演目、千賀さんの公演『欲望のワルツ』を見に行くのと、
その後、今日6月28日が岸田理生さんの命日であるため「水妖
忌」の献杯に行く予定で、ならば新宿ー参宮橋ー駒場をサイクリ
ングしようとか思った。とにかく、余計な「肉」をつけないため
には、歩けるところは歩く、自転車で行けるところは行く、にか
ぎるべし。
午後の稽古は自称「オジサンズ」の『ライフ』、二回目稽古と打
ち合わせ。
10分程度の無意味(無価値ではなく)なパフォーマンスを「前
座」を口実にやってみたいな、と思い立ち、本企画と相成った。
みな、職場も生活も人生の辛酸もたっぷりなめて、「あと残る人
生、何年??」という年頃だから、何をやっても無意味どころか
意味がただよう男たちだ。いや、「意味」に縛られてばかりとい
った方がいいか。「いい年こいてそんなことやって何になる
の?」とか世間や家族の迫る「意味」にいかに<無意味>に立ち
向かえるか?これがなかなか・・・なんだな。
無意味だけど面白い、笑える、いや場合によってはカンドーす
る、そういうものをやりたい。で、どうやって作れるか、そんな
ことを考えつつ、四人のいい大人の男(平均年齢54くらい?)
があれこれ試してみた。考えてきた案をやり、そこで思いついた
ことを話し合い、更に浮かんだアイデアを再び試し。で、最後に
若林さんと酒井さんで「F即興会話」、これが面白い。10分を
はるかに上回る。ナンセンスだけど、人生こもっている、そんな
感じ・・・。
夜、参宮橋から駒場東大前に。どうやっていきゃあいいんだと地
図を見つつ、で何とか辿り着いた。。。。
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『ジュリエット/灰』の招待客用の「あいさつ」文章を考える。
が、考え出すと長くなる。この作品をやろうとしたいきさつから
語らないと本当は「あいさつ」にはならない。しかし、それを語
るとかなりの分量であるし、「あいさつ」としては不合格であ
る。そんな「いきさつ」は他人には知ったことじゃないだろう。
「演劇市場」に大量に出回る「芝居」という商品の山。演劇関係
者には毎日のように公演の案内や招待状が届く。その中から、目
星をつけ話題性のあるものや、何かしら気になるものを選ぶ。こ
うした「大量生産演劇市場」の情報の渦巻きの中から、しかしち
ゃんと手間暇かけて取り組んでいる、それなりの根拠と労力を伴
った「価値ある仕事」であると認識してもらうには、まずは簡潔
に(長いのはみな忙しくてくちんと読まない。現代病とも言える
が、それがリアリティーだ)、かつ他との「差異」を提示する文
言が必要である。まさに「記号の差異」こそ高度資本主義社会に
おけるもの/商品の価値。こうしたフェテェシズム(物質崇拝主
義、マルクスの提示した物神化という資本主義独自の自己増殖シ
ステム)に対峙するシ ニフィアン(記号、つまりコトバと身
体)の「反乱」を主題とする活動をしている。
通常の芝居では、まずはストーリーを書けば、だいたいどんな感
じかわかるが、テラ・アーツ・ファクトリーはそうは行かない。見
るしかない。そしていま稽古場で出来つつあるものはとにかく面
白い。我々でしか出来ない。6年近く一緒にこの演劇集団独自の
表現スタイルとそのための方法を通じて獲得した「集団表現」の
醍醐味がある。そこを反映した文章を書きたいのだ。
メンバーには何度も話したことなのだが、『ジュリエット/灰』
に辿りつくまで長〜く、いた〜い前史がある(そんなことは観客
にはどうでもいいことだから、ここだけの話にはなるが)。この
『ジュリエット/灰』、いやテラ・アーツ・ファクトリーの日本で
の活動の仕切りなおしは、全て1999年の上演中止となった
『カサンドラ』から始まっている。その時に出来なかったこと、
その深く長い内省、によって現在の集団の集団となった根拠、集
団を支える創作に向けた方法の創出、がある。
『カサンドラ』は、1990年代の旧ユーゴスラビア内戦と自分
自身が旧ユーゴスラビアを歩き、多くの人々と交わった際に受け
止めた「体性感覚」から始まっている。「向こう」で出会った
「戦争」と「戦争の傷跡」と切り離せない。そして『カサンド
ラ』を上演しようとした1999年の日本は「平和」の只中、旧
ユーゴスラビアの内戦とは無関係に人々は生きている現実があっ
た。それゆえ1999年に『カサンドラ』は上演できなかっ
た。
向こうの「戦争」は日本とは無関係、少なくともこのプロデュー
ス公演に集まった俳優たちの大半にはそうだ。しかし、その後、
9.11があり、アフガニスタン、イラク戦争と日本人も犠牲に
なったり自衛隊が参加したりで、21世紀に入り、「向こうの出
来事」と「こちら」は無関係とは言い切れなくなった。最近では
やたら「戦争」を題材とした演劇が多い。大手芸能事務所系の舞
台などでは、得意の話題にさえなっている。特攻隊に散った若者
の「涙なくしては見られない」お芝居とか。
安易に「再現型」スタイルで「戦争」を題材にした芝居をやりた
くない。再現型(普通の芝居)とは本人たち、当事者(登場人
物、作家の作った想像上の人物、あるいはそのモデルになった実
在の人物)の代行をすることだ。「向こう」の話を「こちら」が
引き受けることだ。そりゃあ、出来ない。しかし知ることは可能
だ。「こちら」(<わたしのリアリティー、わたしの現実>)か
ら細い糸をたぐりよせてつながることは可能だ。
う〜ん、とにかく「あいさつ」文、どうしよう。それを考え出す
と、最後の詰めに来ている作品創作が滞る。その間に日常の雑
事、仕事が入るから集中できるのはどちらか一つ。
幸い、稽古場は何度か集団創作をやってきて、「集団創作体制」
が取れてきたこともあって順調。演出は何より、その日、みなが
集まって「無駄」に過ごすことのないよう、やることを用意し、
仕込まないとならない。そこは何とかうまくいっている。みなや
ることがちゃんとあって、稽古場に来て「だれる」ことはない。
これが集団創作の難点でもあったのだ。特にアイデアやプランに
行き詰ったときは。
今は「劇団」体制なので、みなが相互協力的。かつ演出が父親代
わり、いや母親代わりで、何でもそこに頼ってしまう式の日本型
「甘えの構造」「親離れ」できない「いい歳した子供たち」(役
者と呼ばれる人種)の集まり的演劇現場とは違う。みな、「一個
の表現者」としての自覚と自立心がきちんと芽生えてきている。
午前中、ちょっと必要な資料を図書館や紀伊国屋書店に探しに行
くが見つからず。
午後、自転車で新宿から駒場東大前アゴラ劇場へ。「リーディン
グ・パフォーマンス」と銘打っていたユニットRの舞台を観に行
く。「リーディング・パフォーマンス」か、いい命名だ。岸田理
生さんの小説を題材にリーディングするらしいが、パフォーマン
スと入っているから、ただの本読みではないだろう。そこが興味
をそそる。リーディング形式には以前から、たくさんの可能性が
あると感じていた。テラ・アーツ・ファクトリーも現在の「パフォ
ーマンス系」舞台と並行して取り組みたいと思っている。しかも
現在の「パフォーマンス系」(身体を中心に劇とテクストを再構
成する方法)と表裏一体のカタチで。それにはどういうやり方が
可能なのか、そこを現在、考察中である。戯曲や小説、ドキュメ
ントなどを舞台に掛ける、のを現在の「集団創作」と並行しなが
ら来年あたりからやりたいと思っている。
夕方、駒場の劇場から参宮橋の稽古場へ。時間があいたのでヨヨ
ギ公園で少し思索の後、Oさんからあれやこれやの話を聞く相談
係。それから『ジュリエット/灰』の稽古。今日は最後の場面
(4場)を動きながら試してみる。
終了後、藤井、中内と企画運営関連の打ち合わせ。来年の企画事
業などをめぐって。そして24時前帰宅、ってな一日。なんだこ
りゃあ、ほんとに日記になった。
合間に中村雄二郎、山口昌男の『知の旅への誘い』、「動きなが
ら」読む。旅、歩く、思索と逍遥、空間の移動と体性感覚、イメ
ージへの影響、心理の迷路・・・・。面白い。
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日曜日、暑い、蒸す。暑いのは何とか凌げるが、湿度が高いのが
からだにこたえる。呼吸が出来なくなる。夜、胸や背中が痛んで
眠れない。何度もクーラーを入れて除湿し、また切ってを繰り返
す。すっかり寝不足。
演出外の仕事の影響で、他のもろもろの作業も滞る。公演が近づ
いて演出関連の雑務も多いが、同時にテラとファクトリーの運営
事務もある。秋の事業準備(稽古日程や稽古場手配、ちらし製作
基礎案あれこれ)、来年の事業準備(公演内容、劇場、企画自体
のことあれこれ)、8月9月のWS特別企画の準備(チラシ作
成、広報)、その合間に通常の仕事(講師と家事と)もある。い
やどちらが「合間」の仕事かわからない。ひたすら滞る。もろも
ろの仕事の間に稽古場に顔を出している。
演出は稽古が始まるまでと稽古が終わってからが勝負。どれだけ
稽古場に準備したものを持ち込めるか。もちろん稽古場内の時間
も真剣勝負、気は抜けない。作品一本演出するだけでフルタイム
の仕事だ。調べものもたくさんあるし打ち合わせもあるし稽古内
容を考える時間もいる。今回は新作上演だからスコアー、テクス
ト作りなどと全体構想を稽古を進めながら考える。遠くから眺め
つつ、手先の仕事を一つ一つ片付ける、そういう作業に入ってい
る。そこに集中すると、運営実務(来年のことまで考えるわけだ
し)に気が回らない。ほかに仕事がなければまだ大丈夫だが、他
の仕事をしないと生きていけないから時間がなくなる。もろもろ
限界に来ている。からだが壊れるか、何らかの解決をはかるか、
これも早急の課題。
だんだん視界混濁、明日から午後から夜までの稽古体制、からだ
が持つか少々不安。今回、最後まで乗り切れるか、これで討ち死
にするか(笑)。神経が相当まいって来た。ガンバレ、自分!
と実務作業をしようと入った近くのカフェで、「はやし!」と背
後から野太い聞きなれた声がする。流山児さんではないか。これ
から演出者協会の総会だった。うっかり忘れていた。ここで会っ
たが100年目、行かざるを得ないって。。。で、とにかく顔を
出した(途中、稽古準備につき失礼)。和田事務局長体制で、活
動の基本基金(貯え)も十分出来た。よくやったなあ、えらいの
一言。立派なことを言うだけじゃあだめだ。足元をきちんと固め
て足腰を強くしないと動くにも動けない。3本の主軸事業を毎年
度継続で開催している。運営が軌道に乗ってきた感じ。我が協会
(ITI)と対照的、これは本気でITIも何とかしなくちゃ
あ。「大名仕事してるなあ」とITIの理事にも就任した流氏、
まったく同感。足場を固めないと「理想」なんて吹っ飛んでしま
う。
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雨、昼にはあがる。が湿度は相変わらず高いのでからだにコタエ
ル。稽古場の空調はからだに良くないからと、メンバーは、極力
空調を入れないようにしている。で、湿度が高くなると、高湿が
からだの機能を(特に肺とか)狂わせてしまうワガハイには地獄
となる。稽古場に入ると空気が「もわっ」としてそれだけでから
だがくじけそうになるがひたすらガマン、忍耐の日々。
洞爺湖サミット始まる。
環境問題、食糧問題…、世界が危機に瀕している。資本主義、自
由経済システムがすでに限界に来ている。CO2削減目標設定に
関する長期目標(2050年)さえ各国の利害優先で難しい。近
代世界システムである市場原理、資本主義・自由主義経済体制と
いう近代文明自体の崩壊が秒読みで始まっている。
今日から『ジュリエット/灰』の毎日稽古、午後〜夜の「フルタ
イム稽古体制」。本番まで「過酷レース」に突入。体力と気力、
今回は最後まで持ちこたえられるか、いつもながら不安一杯。
午後、照明、奥田さん来る。初顔合わせ。福田さんの紹介なので
ある程度安心はしていたが、何より自身が作家でもあることがい
い。創作、創造センスを持った照明家、はわれわれのような全員
が創造作業にタッチする体制の集団にはベストな人選である。
少し話をしただけだが、メタフィジカルな話が出来る相手である
ことがわかっただけでもうれしい。
稽古を終わって稽古場の外で休憩していると親しい劇作家演出家
の高取さんと出くわす。ちょっと世間話、あれこれ。今は京都の
大学の教授もしている。アングラ・サブカルチャー一筋の高取さ
んが大学で教えるとはすごい時代になった。ヨーロッパの真似
(モデルがヨーロッパ)の大学でも勢いのあるサブカルチャーを
学科として受け入れざるを得ないようになったとは。まあ、最近
は昔からの友人知人がずいぶん大学の先生に「昇進」している。
目出度い事だ。
高取さんと別れ、そのままワガハイは西新宿のWS会場へ移動。
メンバーは演出補の藤井を中心に最後の場面の打ち合わせ、プラ
ンニング。まずは演技陣が納得する必要がある。ラスト案たたき
台を演出から提示したので、その案に関して今度は演技陣自身が
検討を加える、今日の夜はその作業時間にあてる。
帰宅後、翌朝は早くから仕事(講師)なので早めに休もうとする
が眠れず、数時間の仮眠で朝(午前5時)を迎える。。。。
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午後、テラ・アーツ・ファクトリーの稽古だが、メンバーの希望で
演出から提示された案を自分たちでもう少し検討したいとのこ
と。それはいいことだ。ぜひともそうして欲しい。出した案をた
だうなづいて受け入れるだけの人はいらない。どんどん疑問を持
って、そして自分なりに納得が行くよう創作と思考の材料にして
もらえればいい。そういうつもりで出しているたたき台の案でし
かない。
その間、「あいさつ」文を考える。ようやく頭の中でまとまり、
やっとPCに向かう。一気に文字どもを打ち込んだ。出来た、こ
れぞ80点は超えたぞ、って自分でも満足できる文面。
夜、男性陣の稽古。あれこれ試行錯誤した結果、ようやくアプロ
ーチの糸口を掴んだ感じ。何とかここから・・・。『ジュリエッ
ト/灰』が始まるまでの10分間、一本勝負。10分って長
い・・・。女子陣の『ジュリエット/灰』が非常にこなれた集団
作業の積み重ねの上に成立しているだけに、何とかそれをこわさ
ない方法を考えないとならない。女子はメイク・ヘアの試し。今
回はヘア・メイクも「遊」ぶ。
稽古終了後、男性陣と立ち会ってくれた居酒屋へ移動しての「打
ち合わせ」。
自分の葬式の話(私の)、どういうのがいいかを話す。最近、よ
く考える。これだけはいつ来るか天のみぞ知るだ。地震と同じ
で、備えておかないとなあ。自分の葬式は自分で片付ける、そう
考えている。人の手に掛かるわけには行かないし、掛けてくれる
手もない。取り敢えず葬式は必要ない。困るのは「骨」の処理だ
ろう。両親の墓は作ったが、私が生きている間しか守れない。身
内がいなくなると、墓は別の人に割り振られる(墓を購入したの
だが、それは永遠のものではないらしい。これが現在の墓場シス
テムらしい。実に市場原理的、合理的。子孫が絶えると自動的に
抹消される。で、子孫は私で絶えるから無理して大金ははたいて
新築したウチの墓は私が死ぬとそこでなくなる)。
あまり歳取ってから死にたくないなあ。友人も知り合いもいなく
なって、周りから迷惑がられて、というのはつらい。ただでさえ
高齢者は生きずらい世の中だ。「惜しまれて」くらいが丁度い
い。二度、葬儀委員長を勤めた(父と母)ため葬式をする際の大
変さを知っている。親の死を知らされたときに真っ先に向かった
のが銀行だった。金をおろしてすぐに葬式場の手配、葬儀会社へ
の手配、予算の打ち合わせ。葬式はイベントだから、葬式請負イ
ベント会社への謝礼が必要だし、お寺さんにもあれやこれやとた
くさんのお金を払う必要がある。現在のお寺は葬式で稼いで成り
立っている商売だから。
葬式が終わって皆が帰った後の広い家にぽつんと一人取り残され
た自分のその時の何とも言えない気持ちは忘れられない。それま
でイベントの進行とたくさんの客への対応に一杯一杯、やっと死
者を送る思いがこみ上げたのはお客さんが全て帰った後であっ
た。位牌と自分との対面、深夜、人のいなくなった家で心もとな
く、夜の静寂の時間を過ごす。もう住む者もいなくなった家。
自分の時は葬式を仕切ってくれる身内はいないかもしれないか
ら、自分で手配しておかないと。葬儀会社に頼めば、海への散骨
が可能らしい。あと植樹葬もあるとか。山か海だろうな。いずれ
にしても金さえ用意しておけば何とかなるから最低限、「物体」
と化した自分の後始末のための経費だけは残しておかないと。自
然から生まれて自然に帰る。他の生物や土や空気にからだの元素
が戻っていく。
「暗い」話みたいだが、まあ人間、そんなもの。死んだらただの
「モノ」、時間が経てばみな忘れる。忘れられる。死ぬのは時間
の問題に過ぎないし、誰も避けられない。どんどん生まれるのだ
からどんどん死なないことには世の中、大変なことになる。そん
な地球の「ゴミ」の一つ、に過ぎない自分。後始末くらいは自分
で考えておかないと。
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昨日、「あいさつ」文が出来たので、頭を占領していた課題が消
え、すっきりする。それなりに時間を要したので、今までで一番
内容の濃い文面になったのではないだろうか。
これで眠れると思ったら、1時過ぎに眠りについて5時には目覚
めた。その間に何度も起きたり。やはり眠れない。湿度と気温が
急に上昇してからだの歯車が狂い、睡眠不足がなかば恒常化。
神経が興奮しているせいもあるか。
『ジュリエット/灰』の創作作業は、別の仕事が頭を占領して創
作に集中できない日々が6月末から7月まで続いたことが響く。
演技陣はすでにスコアーが固まっているシーンを反復練習し、か
らだになじませている。その間にまだ詰めが出来ていないシーン
やテクストを絞り込まないと先に進まないのだが、そこが2週間
ほど停滞する。ともあれ昨日で当面の演出外の仕事も片付き、今
日から作品つくりに集中できるのが、とてもうれしい。午後から
の稽古開始までに、最後の場面の構成とテクストを考察する時間
が取れる。ありがたい。雑用の合間にシーン4の昨日の稽古ビデ
オを繰り返し見て、どう手を加えるか考える。こういう時は他の
雑事も食事もほったらかしに限る。何事も集中、作品つくりに関
しては極度に凝縮的に集中しないとインスピレーションは降りて
来ないのである。
なんやかやを済ませ、午後の稽古場集合時間に合わせて家を出
る。稽古場まで行く道のりの足取りが重い。からだがぐったりし
ていて相当疲労が来ている。
稽古場に入って一緒にファリファリでウォーミングアップをす
る。これでだいぶ、からだが立ち直り元気になる。自分で発明し
ておいてこう言うのも変だが、この練習法はいざという時、ホン
トありがたい。公演前、睡眠も取れず、くたびれはて元気を失い
憔悴しきったからだに活を与えてくれる。元気も戻ってくる。な
んて素晴らしい練習法なんだと、我が身のことゆえ今日はファリ
ファリに感謝。
『ジュリエット/灰』稽古(14時〜22時)
今日はラスト直前までを通す。
前半の今回の醍醐味は「コトバ」の面白さだろうか。これまで見
学したスタッフもすごいお気に入り。こういうコトバの「セン
ス」は他の舞台では見かけない。
後半はただひたすら迫力満点。今日の通しでは、見ていて「圧倒
的」、「壮観」という感があった。これから「筋力」もつけて新
宿村ライブのスペースでやったら、さぞダイナミックになるだろ
うなあ。
ずうっと一緒に旗揚げから継続してきた<いま・このメンバー>
だからこそ出来るものが見られる。何年かして別のメンバーで、
と言っても出来るものではない。他の集団ではもちろん出来な
い。そんな技術を持っている演技者はいない。
世界中の舞台の「精鋭たち」、「前衛」が集まる国際フェスティ
バルに持って行ったら、この作品は関心を引き寄せるだろうな
あ。日本だと「わかりやすい」が政治も大学教授も批評家も猫も
杓子もだから、こういう見る側が自由に解釈し想像できる、「説
明的」でない舞台、つまりシュールな世界はどうなんだろうか。
でも、今回はテラ・アーツ・ファクトリーにしてはこれまでの作品
と比べてもすごく見やすい舞台になっていると思う。
『ジュリエット/灰』は演技者と一体となった作品であり、その
良さがよく出ていいる今だから可能な上演、そういうものになっ
ている。同じものは二度と出来ない。その意味で、今回はぜひ多
くの観客に見てもらいたい。集団としてはいまが「旬」の作品に
なっている。まだまだ集団の一人一人の力量は「発展途上」だ
が。
あともう一歩、ラストのプランを固め、まだゆるいところを詰め
て行き稽古を重ねて作品のクオリティーを本番に向けて上げてゆ
く。そのためにみな仕事を休んだり、無理をして稽古時間をやり
繰りし疲労もピークに来ているところを堪えて頑張っている。
「職人」のこだわりは「クオリティー」、演技の職人集団になり
つつあるテラ・アーツ・ファクトリーの今日この頃。こんな集団は
今時、ない。
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今日は朝、3時に目覚める。眠りについたのが1時ころぎだから
2時間の睡眠か。早朝まで起きて少し眠り、また起きる。空は青
空、気温は上がりそうだが、湿度はそれほでもないので、心地よ
いさわやかな朝だ。快晴の青空がある朝は気分が良い。と思った
ら、どんどん雲が出てきた、むむむ・・・。また湿度が上がりそ
う、いやだなあ。
『ジュリエット/灰』稽古(15時〜22時)
気温が下がりこれでみなの疲れたカラダも少しは楽になるか。集
合時間を少し遅らせ15時に。早朝から仕事をして稽古場に来る
者もいるし、深夜から朝まで仕事をし仮眠をしてから稽古場に来
る者もいる。遠くから往復3〜4時間かけて稽古場に来る者もい
る。夜遅く24時過ぎに帰宅し、それから公演のためのスタッフ
作業をする者もある。衣裳も基本、自分たちで作る。ちらしの折
込や広報宣伝もあり、チケット管理もある。更に自分でチケット
を売らないとならない。
昔、若いころ、劇団に入団希望でくる新人が「ノルマ」(今はノ
ルマとは言わない)はあるのですか?とよく聞いてきた。「バカ
か、こいつ、当たり前だろ」となぐりたくなる。おめえが舞台出
て黙ってて一体何人客を呼べるんだ。古くは劇団四季だって、俳
優たちが同時に一人一人制作にもなって全国を飛び回ってチケッ
トを売りまくって、今がある。学生劇団あがりの私たち小劇場派
は劇団員全員が一丸となってチケットを売って集客し、そうして
活動を続けてきた。野田の劇団だってキャラメルボックスだっ
て、おおよそ人気劇団と言われるところはみなそうしてやってき
たのだ。いやいや演劇では大手「大組織」の新劇の場合はもっと
過酷である。俳優さんの「ノルマ」は小劇場の比ではない。10
0枚単位だ。チケットの売れない役者は出番がなくなる。演出の
仕事で出演してもらった新劇の俳優さんなんか、「団体何名様お
願いします」の手紙を公演のたびに送りつけてくる。それはない
だろ?おめえの演出したんだんぞ、招待扱いじゃんって思ったり
するが、向こうも死に物狂い。タイヘンだ。私たちはせいぜい2
0枚か30枚の「ノルマ」だが、彼らは100枚とか200枚、
平気で課せられる。これはヨーロッパではありえないこと。もち
ろん、だからいい訳じゃない。売ることで、自分の舞台に本気に
なれるし、自分の劇団に対して厳しくなれる。自分が舞台に立つ
ことに対しての意識が変わる。頼まれてやっているわけじゃあな
い、そういう自覚、必死で現実社会をサバイバルしている感覚と
舞台に立つ自分がつながる。
ただ、残念ながら「舞台芸術」が根付いてない、単に数あるエン
ターテイメントの中の一つ程度しか国民に浸透していない日本で
は稽古場一つとっても環境はひどく貧しい。観客もなかなか定着
しない。80年代にはすごい数の若者観客が小劇場に集まった
が、そのうち何人が今も劇場に来ているのか?
マスコミや話題性が出れば客が集まる。それも少し(1〜2年)
休むと、もう忘れられる。ヨーロッパのように芸術文化が市民に
深く根付いていないのは事実だ。日本でアバンギャルド(芸術は
みなアヴァンギャルド、前衛ですよ)な演劇をやるのはアフリカ
の乾燥地帯で水田をやるのに等しい苦難がある。が、アフリカに
もし水田が引けて、米が取れたら、これはすごいって。。。。何
の話だ?ま、そんな感じ。でも負けない。面白いじゃん、って。
でも残念ながら最近はこうした自分の現場(劇団)の「たたき上
げ」で苦労してきた役者がめっきりいなくなった。フリーター感
覚というか、劇団に入らずオーデションや一回きりのユニット、
プロデュースに参加する形態が若者役者世代に浸透してきた。確
かに「楽」だ。そのかわり、こんな楽なゆるいところから上がっ
てきた役者は「使い物」にならない。それが現在の新たな問題。
「楽」しちゃあ駄目だよ。若いときの苦労は買ってでもしろって
言うだろ?まあ、テラ・アーツ・ファクトリーのメンバーは苦労は
しているが、みな自分たちがやっている舞台に納得し、かつ自負
を持ち、作品作りも全員がスタートから参加して納得してやって
いる。こんなステキな振る舞いをしている若者たち、劇団は今
時、他にないと思う。
『ジュリエット/灰』稽古
今日の稽古は最後の場面であるS4を固める。昨日、みなが納得
し定まったスコアーを元に動いてみる。その後、音響の阿部さん
が来る。通しを見てもらい夕食休憩。ワガハイは飯抜きで通し稽
古終了と同時にワークショップ会場に移動。
夜のテラ稽古は最後に残ったS2の詰めをメンバーで検討しても
らう。
ワークショップ・グループC
ファリファリのほぐしから始まって今日は新人組も巻き込んで新
人主体に初のFサークル挑戦。
身体感覚、内触感覚にこだわった訓練法、しかもここまで徹底し
ているのはここしかない。今日はそんなシアターファクトリーの
醍醐味を味わってもらう。
ワークショップ後、再びテラの稽古場に戻り、S2に関してのメ
ン バーの意見や考えた案を見せてもらう。
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風もあり、気温もそれほど上がらず湿度も高くない。
くたびれたからだにはとてもありがいたい一日。今週は雨も少な
く湿度も気温もそれほど高くなく、おかげでからだへの負担も和
らぐ。何とかバテずに済みそう。
今回は久しぶりに舞台で映像を使う。で、映像内容も重要だが、
使い方や舞台上の演技者と映像のミックスの状態も把握したく、
新宿村LIVEに行ってプロジェクターの位置や映像の大きさな
どの確認をする。思った以上に大きなサイズで映し出されるの
で、ショボクはない。
その後、稽古場へ直行。
映像の第一稿を吉本さん、持参。
おお、すごい!口をぽかーんと開けて見入る。
団員も大いに気に入った様子。実にインパクトがある迫力のある
映像になっていて、演技者の演技と対峙し丁度いい具合に拮抗し
合える感じ。
実際のシーン(S4)と絡めてタイムを取り、シーン構成と合わ
せながら再度編集の直しをお願いする。基本路線はこれでいいと
思う。
映像使用に関しては単に舞台の装飾や説明のためではなく、それ
自体が一つの作品であり、舞台上の実人物による演技とパラレル
に対応するような位置に置きたい。それゆえ、映像と演技者を重
ねあわせる演出をする。「生」な身体だと、身体の「生」の部分
が露出し、虚構(登場人物としての演技者)の身体が消失する。
映像を舞台上にかけ、かつ演技者の身体や演技が映像とダブル場
合、つねに白けてしまう(役者が素に見える)のは、身体自体が
シニフィアンとして意識されていないからだ。
いずれにしても映像も予想通りの感じになり、作品としてずいぶ
んレベルの高いものになりそうである。
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いきなり30度を越す夏日。
からだがついていかない。歳じゃ〜、四捨五入したら100歳の
身にはコタエル。
午前中、あれやこれやと雑事を済ませ、汗だくになって午後、稽
古場に到着。その時にすでにぐったり状態、這いつくばって辿り
ついたって感じ。連日の稽古疲れもたまって、さてどうしよう。
午後は女子陣はそれぞれ作業やら何やらで男子陣(テラの女の子
たちからは「おじさんず」と呼ばれる。女の子たちの倍の年齢差
がある)の稽古。今日は今日でまた少し前進かな。ほんと一歩ず
つ、バリバリ進む若手陣に対して熟年チームは一日一歩、って感
じ。ま、急いでも人生どうにもならないし、今更何をどうしよう
ってことでもないし、で。生きてきた姿を表せばそれでいい、極
端な話。
夜は女子陣による『ジュリエット/灰』の稽古。S2シーンを詰
め抜き稽古する。ここを固めればほぼ全体がきっちりと仕上が
る。来週は更に詰めを行って作品を締めて行きたい。完成度をよ
り高める。作品の大枠や観客席から見た出来はかなりいいと思
う。インパクトのある作品になっている。
稽古終了後、気温も下がり明日は久しぶりの稽古休みとあって、
何だか今日の「お疲れ」は少しウキウキ気分。明日は久しぶりに
ウチで寝る曜日にしたい。休みがこんなに「ありがたい」と思え
る今日一日、土曜の初夏の一日であった。疲労が溜まりに溜まっ
てほんと明日が休みできっちりからだを休めて、何とか来週は立
ち直りたい。
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日曜日、久しぶりに稽古休み。
おかげでからだを休めることが出来、ずいぶん楽になった。
ホームページの再編の必要があって仕事の合間を縫って新たに新
サイトを二つ立ち上げ、一つは「散歩日記」とし1999年から
の日誌を集合し、もう一つはWS記録の集合したホームページを
作る。私のPCが貧弱なためデータ量が増えると保存できずシャ
ットダウンし、新規追加したデータが全部消えて、また同じ作業
をしなければならない。データ量が増えるたびにサイトの増設が
必要でそのために移動作業があって、6月の3週間をかけてそれ
をやったのだが、今日、久しぶりの休みとあって少し「日記」に
追加を加えた。が、それがまたぶっとんだ。。。
7月に入っての暑さが相当からだにコタエタ。今回はそれでも今
までの公演に比べてまだ調子は良い。が、やはりいつ倒れるか、
不安は残っていてはらはらしながらやっている。演出は過酷な仕
事だ。それをやるにはよほど強靭な体力が要る。が、カラダに問
題が生じた自分にはその過酷に耐えるだけの力はない(1999
年以来、度を越した無理が出来なくなっている。そのため自分の
からだの具合と相談しながら演出させてもらっている)。
だから本来、演出の仕事は今の自分には不向きかもしれない。そ
ういうわけで、まわりに助けられて何とかやっている感じ。「集
団創作」、「自立する演技者による集団」というもともとめざし
ていたものが今は切羽詰った必要性として機能し始めている。<
怪我の功名>、か。
今日は、知人への公演案内のDM書いたり、来年の企画の打ち合
わせを主催者と電話で交わしたり、11月の公演の稽古計画など
を考えたり、来年以降のテラ・アーツ・ファクトリーの活動方針を
考えたりした。
★テラの現在の位置確認
三年の活動で方向性がより明確になってきたのと、最近の環境
(社会の動静)の変化が徐々に我々サイドに傾いてきているのを
確認する。「超左翼」を名乗る雑誌『ロスジェネ』が発行された
り、『蟹工船』が売り上げベスト1になったり。格差社会、派遣
社員に関する過酷な状況、ネットカフェ難民の増加、ワーキング
プア、老人・弱者の切り捨て・・・。これまで隠蔽されていた資
本主義社会の「システム矛盾」がここのところ一挙に噴出してい
る。
私は左翼ではないが(特に支持する党派もない)、左派ではあ
る。「左派」とは抵抗勢力であると考える。自民党であれ共産党
であれ、日本であれ中国であれ、体制やイデオロギーとは関係な
く、「非・権威」「非・権力」の態度を取る。これが「左派」と
考える。ソ連でも中国でも「左派」は保守派によって粛清され
た。革命を契機に生まれた「人々の幸せをめざす」社会を作ろう
とする「変革」への意志や思いは現実によって裏切られる。革命
の精神は骨抜きにされ、歪曲され、残ったのは巨大な「社会主義
権力機構」と巨大官僚機構。「右派」とは健全や幸せに向かおう
とする力を個人の欲望のために歪める作用であり、「左派」は本
来の道(社会の健全、人々幸せ)をめざそうする力、そういう立
場を取るものを言う。
ロシア革命を支えた殆どのアバンギャルド芸術家は粛清された。
ソ連邦によって公式な芸術態度として認められたのは「社会主義
リアリズム」。アバンギャルド(芸術抵抗派、左派)は「フォル
マリズム(形式主義)」、「ブルジョア的」、「人民の敵」の名
の下に粛清、排除された。
私はイデオロギーは「無翼」だが、姿勢は左派を貫く。つまり
「アバンギャルド」派である。権力や権威に対する<批判と抵抗
の>演劇、やってきた。これからもやっていく。そういう「左
派」には世の中の動き、方向が動きやすい(支持を得やすい)風
向きになってきたなあ、と感じる。
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昼間、暑い夏日の中を3箇所ほど用事で回り、汗だく。
『ジュリエット/灰』稽古
作品、仕上がる(上演スコアー確定)。良い作品になった。肩
の 荷が少しおりた。
ほぼ本番に近い状態で通し稽古。
演技陣も終わったら汗だく。とにかく1時間以上動き続ける、カ
ラダをフルに使う舞台。
スタッフのH君、初めて通し稽古を見ての感想。「シンプルだけ
どメリハリがあって、いい」。休憩時間にアバンギャルドについ
てちょっと会話。「アバンギャルドだよなあ、ウチは」、アバン
ギャルドとは既成の権威や権力、制度への抵抗。「演劇というの
はこういうもの」と誰が決めたものでもないのに勝手に一人歩き
し「決まって」しまう固定観念、幻想という無意識に出来上がっ
ている「制度」に対する反抗である。
それがただの「反抗」じゃなくてここちよい、小気味良い反抗、
つまりはパンクになり見ていて面白いもの、になる。それをめざ
したい。パンクな精神、ポップな感性、シュールな舞台・・・あ
ああ、横文字並んだ。ま、いいか。見て、何かズキューんと来
る、そんな舞台に仕上がっている。それを理屈であれこれ取って
付けたくはない。つい意味を与えたくなるのが人情だが、無意味
に(無価値ということではない)徹する。なぜそこでそうなるの
か、それを裏付けするのは言い訳っぽくなる。何故か自分たちで
もよくわからないけど、そうなるしかない。そこに持って行きた
い。パンクで反抗的、でもゾクゾク感、ワクワク感がある舞台、
それが今回の目標。達成しつつある。かなり想像力を刺激する作
品に仕上がった。少し「プレッシャー」から解放される。そりゃ
あ、一発「空振り」な舞台作っちゃうと、まずメンバーの信用失
うし、集団なんて持たないもん。一回一回が及第点を確実に超え
ないと責任は演出家、主宰者に回ってくる。首がかかっています
(笑)。今回も何とか首がつながった・・・・。
ま、そんなこんなもあって暑さだけでなく神経も昂ぶり眠れなか
ったりストレスが溜まったりで、つい「カッ」となりかかったり
「ムカッ」と来そうになるのを「グイッ」と感情を抑え、押し殺
しやっているため、時々、ストレスが口にあらわれ、公演が近づ
くときつい言い方したりする。出来るだけ抑える、我慢する、よ
うにしているが内面はひたすらよじれてる(笑)。でもそれがま
た創作のモチベーション、二重三重の「悪意」ある舞台の作りと
して反映する。
演出とは因果な稼業だ。どこの劇団も演出家と役者は一緒に飲み
に行かない。役者は演出家の悪口を飲みの席で言うことでストレ
ス発散する。そういう役者と演出家の宿命的関係なのだが、ウチ
のような家族的集団でかつ、何かと年齢的に対立的になりやすい
「おやじと娘」的年齢格差の条件下、一回だけのかかわりではな
く継続的な作業を主体にする集団では相互の「理解」だな、要
は。まずはコミュニケーションきちんと取ると、うん。
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午後、『ジュリエット/灰』稽古。セリフ部分の確認を中心に自
主稽古をしてもらう。
夜、新宿村LIVEを借りて、実際の上演空間で要所を実演、実
見する。全体の構図、配置を見る。作品は仕上がる。公演まであ
と9日、これから通し稽古を重ねながら演技面をよりこなれたも
のにしてゆく。女子陣「ジュリエット」組はここのところの暑さ
もあって疲労はピークに達している。作業もまだあれこれ残って
いる。明日は稽古を休みにし、からだを少し休めてもらう。かわ
りにまだすることが残っている男性陣「ライフ」組の稽古をする
ことに。男子陣は今週が勝負。
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今日は男性陣のプレパフォーマンス『ライフ・1』の稽古。
ようやく構成が固まってきた。
少し動いたら、二年前に痛めた股関節に来たあ・・・。足を引き
ずりながら帰宅する。
11年ぶりの舞台復帰(日本では)、でもぼちぼちの復帰じゃわ
い。まだ五体満足とはいかない。舞台の隅っこのほうに立たせて
もらう感じで行こう。これからは「老い」と「枯れ」、これを目
標に行きやす。死ぬまでやるぞ!
「晒す」、格好悪くてもその格好悪さも含めて「晒す」、それが
表現をする、ということだ。表現とは自分の中に世界を引き受け
ることだ。その世界は自分が感じたものでしかない。その世界を
表現として外部化する。これがゲージツカの社会参加だ、政治参
加だ。選挙なんぞに行かなくても、革命に参加しなくてもデモに
行かなくても、ゲージツカにはゲージツカの闘い方がある。芸術
の革命ではなく、革命の芸術である。それは腐敗した「左翼」と
は無縁の革命である。
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真夏日、昼間の暑さはたまらない。去年より梅雨明けが早まった
感じ。
午後は女子陣で確認を兼ねた自主稽古をやってもらう。
合間を縫って、2003年、アメリカのイラク攻撃開始を間には
さんで交わされた香山リカと福田和也の対談を読む。若者たちの
絶望感と「ナショナリズム傾向」をめぐって。
夜は広めの稽古場を使って、実寸で通し稽古。切れ味のいい舞台
に仕上がっている。
映像の第二稿が出来上がる。舞台上で発語されるコトバ(短句フ
レーズ)とオーバーラップして見ると重層的にイメージが拡が
る。面白い。
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『ジュリエット/灰』通し稽古。
演技陣の仕上がりはほぼ完璧!
初めて通し稽古を見た男性陣も思わず終了とともに拍手。圧巻の
舞台、である。世界中探しても見当たらないものになった、感
じ。
あとは劇場に入って照明、音響側が演技陣とうまく絡むことが出
来るか、そこだけが心配。テラ・アーツ・ファクトリーは他の芝居
系に比べて、難易度が極めて高い舞台だ。そのためか、特に照明
と音響はついてくるのに苦労する。アーチストのセンスが要求さ
れる。単なる「技術者」では全く対応できない。ありきたりの芝
居の約束事で作り上げたものではないから、スタッフも全神経、
全感覚をフル動員して感受し対応する必要がある。そのためか、
演出からOKサインが出るのはたいがい最終日あたりになってし
まう。そこが毎回の課題。
いずれにしても通し稽古の段階では完璧、すごく刺激的で良質な
舞台になっている。保守的で閉鎖的な業界人が見たらどう思うか
わからないが、普通のお客さんにはラストまで見るとはっとする
ような舞台になっている。それで良い。生活や日々の葛藤の中で
真摯に生きている人々が見て刺激や何らかの活力になればと願
う。あとは劇場に入って照明、音響が入ってこの感じが壊れない
ことを祈るばかり。ガンバッて、スタッフさん!
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いよいよ今日小屋入り、という日の早朝3時。何かしら「興奮」
して眠れない。
昨夜、最終稽古(通し)をした。昼間、ヘアとメイクを作り、そ
の状態、衣裳もつけての通し稽古。ヘアはメンバーの知人の若い
プロの方にお願いしたため、若さとセンスが先走りして「奇抜」
にならないか心配しながら見守ったが、幸いうまく衣裳やメイ
ク、作品世界とマッチし、いい感じに収まった。
衣裳、メイク、ヘアを揃えて初めて通して見ると新たに発見する
ことあり。
最近、通し稽古の度に何かしら発見し、目を開かせられるのだ
が、今回の作品のように何回見ても、その都度、発見があって見
飽きないというものは一生のうちそうたくさん作れるわけではな
い(関係者であり、作り手でもあるのに)。
30歳でその先に進むのは難しい、と思われるくらい完成された
作品スタイルを作ってしまった(観客、批評をはじめ多方面から
評価もされた)。その時、もうそれ以上先に行けないと思い、そ
の方法を捨てることを決めた。業界に残ったり、「売れる」に
は、それを繰り返していけばいいのだが。
そうして20年以上も試行錯誤を続けた甲斐があった。今日はそ
んな気分。半世紀生きて、今回、ようやく自分なりの新たな表現
形式と世界の見事な合致(表現方法、表現スタイルと創造世界の
一致)を見出した感がする。しかもこれはまだ完成とは言難い。
一作品としては十分完璧に近いのだが、方法、形式、世界として
はもっともっと先に進める。だからまだまだ続けることが出来
る。今回の「収穫」を反復・変奏しながらもっと先に行ってみた
い。そこが一度、「完成スタイル」に達してしまった30歳の時
と異なる部分か。
美学ではなく心理学、現実の再現や模倣ではなく「自己発見」の
劇。自分という奇妙な生き物の正体を突き止めるための飽くなき
潜航、掘削のプロセスとして芸術行為。そのため、現実はたくさ
んのモティフ(材料)を私たちに示してくれている。まだまだモ
チーフは足元にもあちらこちらにも転がっている。現実は表現の
目的ではない(演劇や芸術を通して現実を変える、そのための手
段としての演劇や芸術云々は私たちとは無縁)。現実は表現(演
劇、芸術)の手段である。表現行為、芸術行為、演劇行為自体、
その独自の形式にこそ目的がある。
次回11月は『イグアナの娘、たち・U』。連合赤軍の永田洋子
をモチーフとするが、もちろん連合赤軍事件をあれこれ論評した
り、永田洋子を支持したり批判したり、は私たちには無関係。一
人の人間の中にある奇妙な生き物を探りつつ、それが<わたし自
身>の中にある奇妙な、恐怖な部分を映し出す<鏡>となる、
そのための最適なモティフの一つ、として取り上げるものであ
る。ま、これは訳知り人間や左翼には誤解されるだろうが、一般
の観客には興味深いだろう。2004年初演以来、いや17歳で
連合赤軍事件に出くわしていらいのモティフであり、30年かか
ってようやく一歩踏み込めるようになった題材でもある。すでに
試演会(2004)、初演(2006)と重ねて、極めて強いイ
ンパクトを観客に与えた新テラ・アーツ・ファクトリー代表作の一
つだ。
さて、『ジュリエット/灰』最終稽古を終えた今から小屋入りま
での間に、観客用パンフレットを作る作業を済ませない
と・・・。それにしてもワクワクする。この感じがあるから、3
5年近くも舞台を続けてきたんだろうなあ。
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初日。
午前10時から昨日の場当たりの続きをし、照明、音響と舞台と
の統合をはかる。照明の奥田さん、素晴らしい!感覚的に世界を
バシッとつかんでくれた感じ。それがプランにあらわれている。
特に『ジュリエット/灰』の女子陣が男性陣の「てんやわんや」
のパフォーマンスの後、すぐに暗転して板付きする際の、出演者
登場の際の明かり、何気ない場面だが、そこで観客の無意識の中
で空間が変わらないとならない。それをきちっと演出している明
かり、これぞ「職人」!こういうのが好きなんだなあ、「職人」
のセンス、「職人」でしか出来ない理屈抜きの渋み、シャレ、さ
りげなさ、そして表面には現れないがしかしものの存在を際立た
せる深み。
ちなみに「職人わざ」ってのは最大限の褒めコトバ。演劇も芸術
も「頭」(理屈、観念、概念)で考える奴がやたら多い。考える
べきことは誰よりも徹底して考えないとならないが、その先にそ
ういう「頭」で作り上げたものを裏切る「現実」に出くわし、素
直に「現実」を受け止められる感覚がないと概念に縛られるだけ
だ。感覚で受け止め、感覚がより深く鋭く冴え渡ったとき感じ取
ったものは簡単に言語化(概念化)できない。そのためには時間
が掛かる。概念とは所詮、それまで本や情報、知識で得た常識の
枠であり、過去に出来あがった約束事でしかない。自分が深く感
じうけるものは、その枠をはみ出したものである場合がある。そ
の時には古い枠は通用しない。芸術行為が意味あるものとして成
立するとするなら、その瞬間である。だから「職人わざ」とは芸
術わざを生み出す前提でもあるのだ。それゆえ演技をめざす者は
演技の職人をめざし、更にその先に超えていく態度、姿勢を持つ
必要がある、と思うのだ。
午後1時からゲネプロ。映像がどうしても思ったほどクリアに出
ない。プロジェクターの性能の限界ゆえ、どうにもならない。特
に最初の5分の映像(ボスニア・ヘルツエゴビナで私が撮影した
「廃墟」の映像を吉本さんが加工・編集し映像作品として制作し
てくれたもの)、少し残念。何とかならないか、としばし格闘。
ゲネプロ終了後、客席を作る。今回は面白い客席の作りになっ
た。普通のお芝居には向かないスペースかもしれないが(柱がど
ーんとスペースのど真ん中にあったりして)、それも舞台装置の
一部と考えると面白い空間になる。『ジュリエット/灰』では空
間自体の「制約」を舞台の効果に変える工夫をした。横長客席、
見る位置で全く舞台の見え方、見える部分が異なる。そこが面白
みである。
そして初日が幕を開ける。大入り。補助席を出す。
今回は60歳で舞台デビューの若林さん、同じく四捨五入で50
歳の酒井さんも初デビュー。私と滝が加わり、殆ど無意味、「毎
度バカバカしい」、「てんやわんや」の前座芝居(プレパフォー
マンス)を演じる。いい年こいた男がクレイジーにアホをやる。
これを若者たちにはぜひ見てもらいたい。私の初心、理屈ではな
く態度、姿で見せるしか説得力はない。そんなこんなでテラ・ア
ーツ・ファクトリーの親子ほど歳の差のある女子メンバーはみな
ついてきてくれた。今回は舞台で示す、晒す。しかし個人的には
11年ぶりの舞台、もうすっかり「勘」が鈍っている。少しずつ
取り戻していこう。
『ジュリエット/灰』、客席から見られなかったからわからない
が、もうやってきたことを信じるのみ。極めて力強い舞台になっ
たのを空気で感じる。
歌人の林あまりさんが久しぶりに見に来てくれる。相変わらず
若々しい。それに比べて当方の老けたこと。。。役者の下総源太
郎さん、元新宿梁山泊の松岡さん、唐組に入った元WSメンバー
の大ちゃん、同じく元WSメンバーの曾田君、岸君、中村さん、
生徒の佐藤君、五十嵐さん、福島君、鈴木さん。。。。「完成度
が高い」、「うまく言葉に出来ないがズシーンと来た」、「集団
の表現になっている」、あれやこれや。初日は特に続けて見に来
てくれている客が多い。また気合の入ったコアな客もウチは多
い。そのため、「前」より作品の質を落とせないから緊張感は高
まる。
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毎日、汗だく。
いやあ、おじさんたちは短い前座パフォーマンスとは言え、毎日
が死に物狂い。10 分ちょっとだが、終わったら汗だく、まだ
生きてて良かった状態。大雑把な流れと基本コンセプトはある
が、即興に近いので毎回、流れを作って行かないとならない。
う まく行く時もあり失敗したなという時もある。
体力的には100M全力疾走、心臓ばくばく、脳血管切れんじゃ
ね、ってくらいいいオヤジがブレイクする。そのバカバカしさに
一期一会でかける。
今日は本番前に写真撮影があって一回やることになったが、もう
汗だく。本番に合わせてヒートダウンするのに苦労する。このオ
ヤジ格闘記、終演後は足ふらふら、家に帰ってすぐに湿布薬を足
に貼る日々。歳を取ることの侘しさと「痛み」を感じる。これは
次回のコンセプトだ。「取り残される恐怖」って。
公演二日目、昨日に続いて大入り、会場整理がてんてこ舞い。女
子演技陣がスタ ッフ会場整理係りでフル活躍する。観客席には
石澤秀二さん来てくれる。照明の奥田さん、思わず近寄る。桐朋
学園大学演劇科出身の奥田さんのかつての教授だったとか。青年
座の役者さん数名、WSの土田君、おじさんたちのパフォーマン
スに「反則ですよ」と笑い。同じくWSの江口君、元生徒の西
君、WSの上田さん、生徒さんを連れてきてくれる。大きくなっ
たなあ。彼女たちが中学生の時に一緒に芝居を作った。いまはい
いお嬢さんに。その分、こちらが墓場に近づいたって事か
(笑)。
藤井から劇団再生の演出家の高木さんを紹介される。高木さんは
よくものを知っている。少しだけの話だけど盛り上がった。「弁
証法ですか?」、「ヘーゲル」・・・いや、「ヘーゲルに関係す
るとは思いませんが」、「ニーチェには近しさを感じる」、近代
合理主義以降の人間中心主義(西欧近代主義)に対する批判意識
が根本にあり、その毒を一番現在でも受けているのが演劇領域で
あるから、通常の「お芝居」と言われているものを演劇でもなん
でもないと否定するのである。
終演後、スタッフさん交えて居酒屋へ。照明の奥田さん「こと
ば、よく聞くとすごい面白いんですよね」。そうなんだ、一度だ
けだと何となく聞き逃すんだけど、よく聞くとと一行、一句それ
なりに奥が深いって。今回、「グロ」は少ないが、毒は相変わら
ず効いている、意味不明もざくざく。「男はちゃぶ台」、「タグ
つきの将来」、「おっぱいが富士山」とか何だとか、延々と続
く。これは一種の「川柳」。そういうワビサビ、何度か見ると興
味が深まる舞台だと思うけど、一見さんには「わからない」が多
くなるのが残念無念。少し頭使えば、読み込んでもらえればどん
どん掘り起こせる舞台だでなあ。あのカードはどういう意味な
の?とか。あの少女は何者?あの灰のようなものは一体何?そも
そもあの女は何故目隠しだったの?なのに何故自分ではずした
の?・・・・とにかく謎は深まるばかり。「ナゾナゾ」遊びだと
思って、謎を解いてもらいたいし。
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公演楽日1。
ソワレー、佐伯隆幸さん、来る。終演後、近くでビールを飲み交
わし歓談する。以前お願いしていたこともあったし、で。私が演
劇関係で敬愛する数少ない批評家であり、この世界で活動をはじ
めた初期の頃、二十代からお付き合いしていただいている先輩で
もある。
「いやあ、11年ぶりに舞台に立って、改めて役者ってのは肉体
労働者だって思いましたよ。ぼくらはプロレタリアートですよ
(テラは徹底して肉体を使うし)、これからはプロレタリア演劇
を名乗ろうかなあ」と冗談半分で言ったら佐伯さん「それいいと
思うよ」と笑いながら同意。
「プロレタリア文学」が復権する昨今、しかし私たちの世代は
「プロレタリア演劇」に関して何も知らない。ただ後世の風評を
聞くばかり。戦前にそうした歴史があり、「プロレタリア演劇
(文学)」を生み出した背景があったのをもっと知るべきかもし
れない。ロシアアバンギャルドとも関連するだろうし、ソ連がリ
アリズムを公式化することで対極にあったアバンギャルドが粛清
され、その結果、ソ連の影響を忠実に受けた日本の戦前の新劇も
リアリズムに統合され、その後、国家弾圧下の時期には変節や紆
余曲折などがあった。結果として、日本の近代演劇は歪められ、
その「歪み」は現在も解消されているわけではない。個人で行う
絵画などの芸術表現と異なり、上演する劇場と観客、そして組織
的な集団が必要な演劇は時代環境の影響をより強く受ける。
個人的には30年近く、「肉体労働」的演劇という意味での「プ
ロレタリアの演劇」をやってきたことになる。「左翼」演劇とは
無論異なる。再現型ではなく現前型であり、写実や模倣ではなく
抽象度の高い造形表現型の演劇だから、「現実を変えるための演
劇(という手段の演劇)」とは全く逆の「プロレタリアの演劇」
だろう。それ自体が現実の革命と一体不可分にある演劇、とでも
言おうか。。
ここ数十年、日本は「豊か」で「平和」であり「右肩上がり」だ
った。そういう環境では私たちのような考えは孤立する。様々な
レッテルの元、包囲され排除される。よくぞ続けたなあと思う。
今年から何だか急に風向きが変わって、私たちのような考えが決
して「少数派」ではない、そんな感じが表面化してきている。世
間の風向きはこっちに角度を変えてきた。50年くらいの振幅を
持った大きな舵の変更時期にさしかかった、と言っていい。
テラをスタートしてから特に抽象度の高さゆえ、「わからない」
「難しい」「つかみどころがない」と言われ続けた。観客の何気
ない無理解なコトバに何度も何度も傷つけら絶望しながらも、宗
旨を変えず、世の中の大勢に妥協せずやってきた。今も観客の
「わからない」「難しい」は変わらないが、それでも理解し受け
入れてくれる人々が以前よりは増えてきた。若いメンバーも強く
支持してくれる。継続的に舞台を観てくれる観客も増え、一回よ
り二回、二回より三回と観劇を重ねることで理解度が高まってい
るようだ。抽象度が高い表現形式ゆえ。かつそういうものを観客
が見慣れてないという演劇史のほうの問題ゆえ、やむをえない事
情だ。
「一見さん」歓迎のコンビニ演劇ばかり増えても演劇の進歩も未
来もない。「一見さんお断り」という態度でやり抜く演劇もあっ
てよい。いや、それがないと深まらないし、発展もない。そう確
信を深め新たな決意を抱く楽日。
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公演楽日2
公演の後の打ち上げの主旨は、公演と公演までに至る数ヶ月の準
備の一応の終了の「区切り」と、メンバー相互の「お疲れさまで
した」という相互感謝、更に公演遂行に当たって様々に協力、バ
ックアップしてくれたスタッフさんの慰労がある。
が、何せこの日は肉体を酷使する舞台を二回やって、その後、バ
ラシと撤去仕事をこなしての打ち上げ。みなくたくたである。私
も出演したため、体力消失。
この打ち上げに得てして関係者以外が加わったりする。いわゆる
「お客さん」。で、くたくたの上に「お客さん」の相手する、な
んてのは不合理と、あまり外部の人は入れないようにするが、そ
れでも何かとお世話になっている人もいるので、そうとばかりは
いかない。だから「打ち上げ」も公演の延長のようなものにな
る。気持ちをゆるめることは出来ない。
テラの基本メンバーは20代女子だから、どうみても若い女の子
には話の合わなそうなおじさんは私が相手をすることになる。そ
んなこんなで、最後まで「ホスト」仕事である。これが「打ち上
げ」というものであり、主催した者たちはここまでは公演の延長
として責任がある。
今回は出演者の知人の中堅役者さんも参加。しかし、さすが役者
さん、しっかりメンバーに打ち解けてくれ一緒に楽しんでくれ
た。こういう方の参加は助かる。人の打ち上げに来ていきなり辛
気臭い説教を始める訳知り、先輩顔のスタッフや役者はかなわな
い。酒を飲んで暴れだす若者も要らない。その手の手合いはいな
い、あるいは入れない、というテラの「打ち上げ」は比較的円
満、公演の終了にふさわしいもので仕切って来た。これもずいぶ
ん苦い経験が一杯あるからなのだ。警察沙汰まであったし、打ち
上げのあと留置所に入った経験さえある(自分が騒いだわけでは
ない。騒いだ連中の尻拭いのため逮捕され留置された)。
それにしてもいろいろ縁があるものだ。打ち上げで外部の人が参
加するとそういう奇縁も発覚し、これはこれで楽しい。新宿梁山
泊創立メンバーの俳優近藤弐吉さんも駆けつけた。「中野***
さんって知ってます?」、いきなり出てきた懐かしい名前。いや
はやびっくりどっきり。
中野さんは学生時代に敬愛し、非常にあこがれた「熱血ロマン
派」、「永遠の青年」役がはまりのイケメン俳優だった人。早稲
田時代の演劇世間あたりではちょっとした知る人ぞ知る人。後に
私が創立したアジア劇場の初期中核メンバーにもなっていただい
た縁の深い方。その名前が出るとはいくらなんでも思わなんだ
で。
Kさんは役者キャリアのスタートが、中野さんのもとであったら
しい。何という奇縁。近藤さんはそれから状況劇場へ入団。その
頃の状況劇場(のち、唐組)には、アジア劇場創立メンバーだっ
た三浦賢二がいて、丁度前の主役(根津甚八、小林薫)が抜けた
後で、次の主役に抜擢されるかされたかの頃だった。三浦君も近
藤さんの先輩に当たる。そんな仲だったのね(殆ど私にしかわか
らない私語世界に。テラの子達にこの驚きをいくら話しても、は
あ、ってな具合で全く共有できない。ま、それだけ古いってこと
ね。だんだん話の共有できる相手はいなくなって老いる寂しさ、
侘しさ、これぞ人間の宿命、悲哀かな)。
Kさんと一緒に状況劇場から新宿梁山泊旗揚げに加わった女優の
石井ひとみさんの旦那にはこれまた初期アジア劇場出身の神谷が
おさまったという。ぐるぐる回って、「狭い業界」、くんずほぐ
れつの血縁関係、義兄弟的因縁ってことだ。ま、そんなこんなで
親しみを持ったKさん、いろいろ奇縁が発覚した打ち上げ、それ
だけでも楽 しかったし。
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今朝五時まで打ち上げ、そして帰宅し寝る。
ともあれ公演が無事終わって、ほっとする。
ほっとする、というのは出演者の突然の病気やケガがなく、無事
公演を終えることが出来たという意味で。公演初日に、家を出る
際はお祈りをする。「無事公演をすることができますように」。
こういう心情はごく自然なものなんだろうなあ。祈るって行為、
祈る気持ち。
長く演劇をやっていると、何度も公演直前に役者がケガしたり、
病気になって入院したりという不測の事態に直面する経験を持
つ。舞台の最中に役者の具合が悪くなって止む無く幕をおろした
こともある。今回、自分も出演し、当たり前だが改めて役者は生
き物だと実感。人間、どんなに偉そうにしても自然界に属してい
るそのごく末端の一部分にすぎない。
漁師が海に漁に出るときに海の神に祈るように、祈る日々。
人間、からだの調子が良いときもあれば、女子なら生理でつらい
ときもある。常に同じ状態、同じ調子でやれるはずはない。それ
でいいと思う。「いつもベストの気持ちで」はわかるが「いつも
ベストでやれる」はずはない。オリンピック選手だって、マラソ
ン選手だって同じだ。生身の身体、傷つきやすく、そして出演が
終わって幕間に下がるときは、衣裳も汗びっしょり、動悸も激し
い。だからほんと、無事終わってやっとココロが休まった。
しばらくは読書に専念したい。20世紀思想の源流となるマルク
ス、ニーチェ、フッサール、フロイト、ハイデガーなどを概観し
てみたい。あと、ロシアアヴァンギャルドに関する著作を読む予
定。
さて、公演翌日朝帰り、疲労たっぷりの地獄のワークショップは
今日もある。
公演直前はお休みを頂いていたので、今日は穴をあけられない年
中無休のワークショップ、こうやって20年続けてきたライフワ
ークだ。が、今日の参加はなんと二名・・・・。むむむ。で、た
っぷり声の交換も含めたファリファリ・ベーシック1を濃密にや
っっった。
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