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初期活動マニフェスト
演劇集団アジア劇場の団員募集パンフレットに掲載した
活動宣言マニフェストより(1979年、24歳)

疾走する風のはてに

人間とは一体何か?限りなき永遠と絶対性への直下のまなざしに促迫されな がら、あるいは飽くなき永遠と絶対性への渇望の果てに我々は死へと至る有 限なる生の逆襲にしばしば身を打ちふるわせる。また、絶えず完結しえぬ自 己の極北へのとどまることを知らぬ旅の夢想に身を焼き尽くしながら、仮想 と現実との二重の疎外のるつぼの中に落下する自己を見つめてしまわざるを 得ない。

降りそそぐ他者の視線は剣のように鋭く冷たい。しかしそれ以上に他者の視 線を自己の内部に飼い込んだ絶対者の孤独、それはキルケゴール的な死を死 にきれぬまま永遠の死に至る病いを請け負った生の姿さえ想起させてしまう ものである。

舞台といわず、あらゆる局面において、人間の自己の生との格闘の合い間に かいま見る、このような実在感に直面した時、我々の内部のドラマは激しく 狂奔するのである。

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「三つ子の魂百まで」という諺がある。小さい頃見についた性質は年老いて も消えることはないという意味である。いくら科学が進もうが、多くの知識 を獲得しようが、人間自体の基本的な在り方は古代よりそうかわるわけでは ない。現代は極端な知識偏重の時代で、様々に抽象性を帯びた「こと」を 「もの」として記号化しつくしてしまう時代であるが、こうした人間の自ら の主観を中心とした知識作用が、自然に対し絶対的な力を有するという近代 独自の信仰は、多方面において覆されつつある。

しばしば他者の視線に見据えられることにより、自意識の肥大化と自己同一 性の分裂に晒される舞台という場に深く立ち合う我々は、常に頑強なる自意 識との闘いを繰りひろげざるを得ないのである。この自意識は、あらゆる他 者や事物を対象化し、同時に自らを重防備させ閉じ込めてしまうものとして 現れる。他者との直接的な交感の拒絶は、一方でみずみずしい他者や事物と の出会いからも自己を遠ざけてゆく縞果を生み出す。自らの意識の基底にお いて知らぬうちに自閉は進行してゆく。<関係性>の決壊は足元からひろが っているのである。

現在の多くの舞台がある種の共同性を希求していながら、根底的には全く非 関係的な自閉塞に陥っている素因は、これらの演戯者が、自己の意識の表眉 の思考回路の浅い部分でのみ、もっぱら台本や言葉を解釈しあるいは対象化 し、自らの意識自体をいったん解体し、再生してゆく作業過程を充分自己化 することを欠落させているためであり、このことが更に自らの自閉の硬直化 と自己の物化を増大させてゆく結果ともなっているのだと言える。この自己 の〈解体と再生〉の作業こそ我々にとっての<演戯>修業であり、同時に 我々が舞台を通じて「社会」へと切り込む〈関係性〉の基盤ともなるのであ る。

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「三つ子の魂百まで」とは言うものの、人間は成長とともに様々な観念を固 定化させてゆく。自己の意識の表層に種々の知識を附加し、固定化した思考 回路による対象の解釈が、逆に対象からの自己疎外を喚起させてゆく結果を 生む。自己の魂の空白状態に対する習慣化を弁明する処世法のもと、自己の 生の「在る」ことの基底から無縁の地平に他者や事物が遠ざかってゆく。こ うした自己の意識の亀裂と彷徨に対する全面的な確執に無傷な演戯者を野放 しにした舞台は徹底的に放逐されるべきであろう。

ともあれ〈演戯〉行為を契機とした自己の<解体と再生>のプロセスと並行 しつつ、根底的に巨大な疎外態として我々の肌身を窒閉してやまぬ近代日本 の風と土ぼこりに自らの総身を晒し、更に自閉することへの拒絶の意志を強 くひっさげ、我々は舞台という〈関係性〉の力学の場へ不断に進行しつづけ る決意をもって<演戯>修業を志す者である。

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知識が自然に対し絶対的な力を有するという近代の信仰は、ベーコンの経験 論やデカルトの合理主義にまで遡ってしまう。これはやがて自然科学の発展 とともに「無限の力」の幻想を人間に与える。人間は自然に対し極度の傲慢 を領有し二れは産業革命を経た西欧近代資本主義社会における人間の意識の 在り方の根底を形成するのである。

我が国が明治期に積極的に輸入した西欧の近代思想の基盤には、人間がある いはその主観が知識をもって自己も含めた全ての自然を支配することができ るという倣慢なる幻想が介在していたのである。

しかもこの思い上がりの思考法が現在の社会はもとより全ての領域を侵蝕 し、とりわけ舞台においては濃密に凝縮されて蔓延化している。人閻の自然 に対する倣慢が逆に自己疎外、自己の物化を併発し肥大化させていることは 自明である。

西欧における近代的主観の前には「在るがままの自然」があらかじめ存在 し、その上で「理性」を基軸とした人間の主観が君臨するのであるが、では 「在るがままの自然」なるものが先験的に存在する根拠とは一体何か?「在 るがままの自然」に対する楽観的で無節操な信頼や曖昧なる思い込みは、哲 学・思想方面では卓越した批判作業もなされているが具体的に人間の自意識 の蠢動し渦巻く場である舞台に関しては、充分な現場的批判作業は全く遅れ ているのが現状である。

戯曲論や運動論、観客論等の演劇における一般論のみが先行し、個別現場に おける関係の力学を基盤とした具体的方法論の欠落を乗り越える作業が求心 的に提起されつづけぬ限り、他者や事物へと立ち向かうダイナミックなパワ ーの充電はありえぬ。

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自らの〈思い〉をとことん触発しつづける方法意志こそあらゆる風化作用か ら自らを耐えさせよう。風化に耐えうる自己の<解体と再生>の深化の作業 こそ我々にとって最も重要なことであり、自らを触発しつづける営為こそ< 演戯>修業の核でもあるのだ。

無残なまでの自意識との相克の中、近代の負性を背負い苦闘する演戯者は、 自らの存在自体のきしみを請け負いつつ、あらゆる屈折の交錯する力学的場 としての舞台、あるいは舞台を支える時代と風土に力強<吃立せねばならな い。

「在るがままの自然」に裏切られつつも、自らの生の発揮として永遠と絶対 性の神話への真っ向うからの挑戦を生き抜いてゆく熱情こそ真に一つのドラ マを支える根拠となりえよう。

我々は完結しえぬ未視の極北へ向けた旅を準備しつつ死に至る病との臨界を 疾走しつづける風を夢見る。自らの生きる現場において、自らの生き死にの 位相において、自らのドラマを希求しようと欲する者である。


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