|
テラ・アーツ・ファクトリーが上演活動を再開(新集団を組織)してから4
年目、そして創立から24年目を迎える。
1990年代初頭に体系化した訓練メソッド「ファリファリ」(2006よ
りFメソッドと正式に命名)に基づく身体表現。それと「集団創作」による
コラージュ的な作劇スタイル。この二つを融合させる試みを1990年以
降、模索し続けた。が、それは困難を極める道であり、かつ道なき道だっ
た。何度も何度も壁にぶつかり、その度に立ち往生し、時には活動休止状態
にまで陥ることもあった(やりたくても人とカネが付いてこない、という現
実の壁)。
世界中で「ファリファリ」を使ったワークショップを実施し、それはどこで
も人気絶大だった。一度やるとそれに参加した多国籍のメンバーから「俺の
国でもやってくれ」、「私のところでも」と次々にオファーが来た。
1990年から教えていた専門学校でも2002年に授業の中の身体訓練と
して実施してみたが、若い生徒たちに極めて評判が良かった。中には病み付
きになった生徒もいて、結果として現在のテラ・アーツ・ファクトリーにつ
ながっている。
90年代に海外で上演した、身体性をベースにしたコラージュ作品『SPI
RARE』、『CATALY』、『デズデモ―ナ』は、向こうの観客には極め
て好意的に受け止めてもらった。が、同じ作品を日本で上演しても、「スト
ーリーがわからない・・・」。日本では80年代以降、演劇も市場原理に取
り込まれていった。結果として尖鋭な表現は、周辺に排除(無視)という状
況になっていた。「わかりやすさ」、「気軽さ」、「口当たりの良
さ」・・・。
海外の観客は自分で勝手に想像するのが好きらしく、そういう人たちが劇場
に足を運ぶ。だから勝手に想像してくれる。はじめてフランスで公演した
時、終演後、劇場のロビーに観客が待っていて、「自分はこう受け止めた
が、それでいいのか?」とわざわざ私たちに自分の感想を伝えに来てくれ
た。舞台作品に対する受動性(日本)と能動性(フランス)の違いを感じ
た。それは劇場文化の「成熟度」の違い(日本には劇場文化はまだ育ってい
ない、との意見もあるが)なのかどうか、私にはわからない。が、車でオー
トマチックが殆ど普及していない国民性(私が行った時にはオートマチック
車は10%くらいしか なかった)。「何で車の運転まで機械に任せるん
だ」、「マニュアルでないと運転する楽しみがないではないか」。こういう
反応を示す国民性とどんどん便利さを追求してきた日本人の差異がかいまみ
れられる。想像することさえ、他人に委ねてしまう。自分はその「答え」を
受け取るだけ。ある大学教授が最近の学生は自分で考えようとしない、答え
ばかりを求める、と語っていたが、全体がそうなっているのか。自分で頭と
心をフルに使って想像することくらい楽しいことはない、そう思うのだけ
ど。いつの間にか想像する楽しみさえ「去勢」されてしまったのか?
便利さは善し悪しである。使い方を自制しないと精神的に自立できない「半
大人」、「半人前」人間が増大する。子供たちに何でも与えるのはいいとは
思えない。欠乏によるハングリーさ、自力で何とか問題を解決しようとする
自立心。そういうのがこれからはより必要になるのだろう。選挙をやるな
ら、論点は「想像力」、にしてもらいたい(笑)。
今までの日本は、依存型社会だった。レールに乗っていれば何とか無難に生
きて行けた。会社に就職すれば何とか一生が保障された。これからはそうは
行かない。次回の選挙では日本の進路を左右する判定がなされるかもしれな
い。自民、民主、どちらが勝っても、今までのあり方、「相互依存型」社会
から少しずつ「自立型」社会に向かわないと立ち行かない、ということを暗
示させている。
活動再開4年、創立24年だが、何でも創業100年を迎える老舗が日本に
は2万社くらいあるそうだ(東京新聞8月13日朝刊)。1000年を越え
る「企業」もあるそうで、一番古いのは創業578年(飛鳥時代)からの金
剛組(寺社建築業、大阪府)とか。それを考えると24年なんて、何のこと
はない。スタートが「苦難」の連続だったから、次世代に つなげて100
0年続く集団になったらいいな、と夢はふくらむ。「ファリファリ」、「集
団創作」、これは少なくとも100年後も通じるものと確信する。あとは、
続くも消えるも次世代と時の運。初代としては「二代目」以降に委ねるの
み。が、当分は頑張ります。そういう気持ちの4年、であり24年、としよ
う。勝負はこれから。
|
|
|