林英樹の演劇手帖 TOP


『ジュヌン〜狂気』

2005年3月18日
東京国際芸術祭の演目『ジュヌン〜狂気』を見る。チュニジアからの招待作品。テ クスト、ことばが美しい、よく出来ている。狂人と詩人、狂気と芸術、その関係が 人々の心を惹きつける。屈折した環境に置かれた出口の見つからない若者には 受ける。長年、西欧に「敗北」しつづけてきたアラブ社会での上演では共感を得る であろう芝居。

主人公の青年は家庭の被害者であり、家族は歴史の被害者である。屈折したアラ ブ社会、その原理が生み出す抑圧、さらに世界の中での「影」としての暗部をヌン の家族は象徴し、それゆえヌンの自我は壊される。壊された、傷を負った自我は、 社会と歴史の被害者でもある。


韓国で、「竹島・独島」問題を契機に一気に「反日」感情が沸き起こる。ナショナリ ズム、植民地の傷ゆえの屈折した感情が出口を求める。演劇はこうした感情に呼 応し民衆の心を一つに結び付けてゆく機能を持つことは確かだ。

それは演劇が従来、国家に、その下にある国民意識の統合と一体として発達した 西欧近代の演劇の背景とも呼応する。更にその西欧近代主義の延長にある社会 主義国家では完璧に演劇は国家の統制下、管理下に置かれたことも事実。

わたしたちがめざす演劇は国家や社会(その文化の地域性)に属しつつ、ぎりぎり その手前(プレ)で「国家」から逸脱し個人へと向かう演劇。私はこれを<プレシア ター>と名づけている。(一定の活動の後、いずれ論を展開します)それは「国家」 に帰属しない<越境>を志す演劇への態度でもある。


『ジュヌン〜狂気』のラスト、女性担当医師の質問に青年ヌンは答える。「あなたは 何になりたいの?」(女医)「生者に!」(青年)「廃人」として世界から遺棄されて来 たアラブ社会に生きる者の屈折した感情に答えるかのような台詞だ。それゆえ、こ の演劇は古典的である。古典的に、喝采を得るだろう。非常にうまい。作り手は職 業的才能を持った演劇人だと思う。

「竹島・独島」問題で火がついた韓国で、かつて『トロイアの女』(メアリー・スチュア ート演出)を見た。その舞台と観客との関係構造に類似している。あの舞台を前に 客席の私(日本人)は演劇、が国家主義(愛国心)と容易に結びつくことを身を持っ て味わい、後味の悪さを感じた。

韓国版『トロイアの女』で略奪者は日本であり、舞台で韓国(トロイア)の女たちはこ れでもかと無慈悲に陵辱され(その具体的シーンを演出はより強調する、裸にし、 レイプし・・・、このギリシア軍=日本軍の暴虐さをクローズアップする)かつて支配 され、その悔しさを心理下に抱えた観客は、彼らにとって「外国人」(アメリカ人、 ラ・ママ劇場監督)演出家に対し、よくぞ自分たちの気ちがわかってくれた、と涙 し、立ち上がり満場の喝采を送っていた。

私は内容のあれこれではなく、この観客と舞台の関係の構造、ここにナショナルな 意識と演劇が直接結びつく危うさを感じた。演劇人と演劇行為は、こうした観客と の関係を回避するべきだ。それをメアリー・スチュアートが何故理解してない、と考 え込んだ。彼女の「反体制」とはその程度の、つまり古典左翼と同レベルの「支配v s被支配」、「加害者vs被害者」という単純な二元構造、そこに安住し決して自分は 傷つかない「悪への批判者」の立場、で芝居をやるのか、という不信に変わったも のだ。

先に、日韓演劇交流をやった。私は韓国で「反日」の嵐が吹き荒れ、たとえ日本と 韓国が戦争になっても、韓国の演劇人は戦争に向かう「韓国国民」の愛国心に抗 い、私も同じ立場で、この日韓の演劇交流を継続する事を維持すべきだと思って いる。平和な時より、緊張が高まった時にこそ一人一人の思想が試されるものだ と考えるし、思想は行為性によって示されるもの、言説だけではない。安全圏にい られる時に自由勝手にしゃべり、やばくなると沈黙するインテリの言説、を誰も信じ まい。

少なくとも「戦争状態」のパレスティナとイスラエルでは、相互の国家レベルでの 「憎悪」を乗り越えようとする演劇人の相互交流が一部では行われている。これは 身を持った、行為がたえず危険に晒される、極めて高度な思想の実践である。そ れが演劇の、あるいは芸術家の闘い方だ。

それにしても今、この劇場(パークタワー)の観客に何故、この演劇なのか?と思 わざるをえなかった。客席には普段は決して演劇を見ないような「義理」で来てい る観客(スポンサー、関係者から回された?)とか、フランス文化帝国の末席に甘 んじるチュニジアのエリート文化人(演出家はソルボンヌ留学組)の屈折した感情、 と一体どのように関係を取ればいいのか、さえも無関係な要するにイスラム圏の 傷も植民地の敗北感も全て他人事、にしか思えないという顔、顔、顔。そこには当 惑さえない。こういう舞台と客席の関係は不幸だと思う。そもそもこの演劇はなに ゆえ東京の、パークタワーという見掛け倒しの「リッチ」さだけしかない虚妄の空間 で上演されなければならなかったのだろうか?

ここは新宿住民の私でさえ、あまり近寄る気になれない排他的なスペースである。 何故、ここでこの演目なのか?何故、日本で、東京国際芸術祭でこの演目なの か、私にはよく理解できなかった。



トップへ
戻る