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イスラエルの若いダンスグループ公演(TIF)を見に西巣鴨へ。『ストロ
ベリークリームと火薬』(ヤスミン・ゴデール振付。7人の20代〜30代
のダンサー、女4人、男3人、舞台には検問所の「遮断機」のみ。床は木目
の敷物。。。。
TIFだし、イスラエルだし、ちらしの文言がすごかったしで、どうなんだ
ろう、と見に行ったが、やはりダンスだった。ダンスではこの程度しか表現
できないんだなあ、というダンスの限界を改めて確認した公演。
ダンスは言葉が欠如しているから抽象は免れないのだが、イスラエルのこの
集団はかの地の「政治状況」を反映させる意図を持ってはいるようだが、ダ
ンスという制度ではそれは駄目だ。「肉体依存」を捨てないと。言葉と向き
合わないと。。。。
じゃあ、私たちはどうなの?
私たちは、フィジカルと言っても、それはあくまで言葉あってのもの。エク
リチュール(書かれた文字)が、身体を持った言葉に転換する際の「転換」
そのものによって生じる差異、発語行為、発声行為の持つ意味が、書かれた
テクストと声によって発語(表出)されるテクスト(上演)の間に決定的な
差異を生じる、この〈差異〉の隙間に舞台、演劇としての可能性を見出すか
ら、発語を支える身体の個別性をより自覚した上で、言葉を使ったメタフィ
ジカルな空間を考える。つまり言葉=制度、と制度=観念の先にあるものと
の〈隙間〉にこそ、演劇表現の可能性がある、そこが演説や文章表現と異な
る位相を生み出す場の生成に通じる、と思うわけである。
更に、上演では声による言葉だけでなく、ものとしての身体、それが生み出
す空気の変化、楽曲、観客の息遣い、気配、光と闇、それらもテクスト
(糸)となり、上演という織物(テクスチュール)を形成する。そのことに
自覚的な演劇は少ない。意識はするが、せいぜい場面転換を埋めるためのB
GM、効果としての照明、言葉を説明するだけの身振り・・・。つまりは舞
台の現実として無数のテクストがあるにもかかわらず、書かれたテクストに
しか目を向けていない演劇が「演劇」と思い込んでいる状況が上演者と観客
双方に横たわる。その頑強な意識の構造(固定観念)を溶きほぐすことを方
法的に提示しつつ、作品世界を成立させる、そういう上演を探っていきた
い。
劇場のこと…。
西巣鴨創造学舎、旧西巣鴨中学校の体育館。入ったとき、気楽な感じでいい
なあ、と思った。劇場(中劇場以上)の堅苦しさがなくていいなあ、と最初
に思う。風通しがよい、密閉感がない。ただでさえ一方向に向かった席に沢
山の知らない人間たちがおしこめられるのだから劇場というのは妙に緊張す
る。行きたくない場所の一つだ(笑)。それがないからいい。元体育館、だ
からか。だいたい子供の頃、体育館は昼休みの遊び場。体操の授業以外の時
間、つまり休憩時間にバスケットボールを楽しんだり、とにかく教室で50
分、椅子に据えられ拷問を受けたあとの身体を伸び伸びさせる場所だったの
だから、そういう場所こそ劇場にふさわしい。状況劇場をはじめて見に行っ
たときは、テントのなつかしさ、というか堅苦しさのない雰囲気と、不特定
の観客が密集して押し込められたにも拘らず、何か時代の空気を共有してい
る、とりわけ「アンダーグラウンド」と反体制が直結していて、そういう
人々が集まったという連帯感があって、居心地が良かったが、時代が人々を
ばらばらにし、孤立化させた(孤立は近代の必然であり、それは資本主義の
行き着く先だが)現在において、劇場も様々な人種が集まり、緊張を強いる
場になっている。それをほぐすのが空間であり、それには新築ビルの中や文
化施設より、こういう旧体育館のような時間を持った、子供たちの遊んでい
た気配が染み込んだスペースが似合っている。
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