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シアターファクトリーのワークショップを行う。
今日は新しい練習をする。名づけて「F即興発話」。
その場で考えて、その場で会話する即興である。これを頭から(<上から>
言う言葉を用意する)ではなく、より<下から>(身体感覚と知覚の相互作
用、空間と時間、相手方(パートナー)とのつながりやずれやことなのつっ
かえや、そうした様々にその場で起きることーー生成変化ーーの中でコトバ
を紡ぎ出す、と同時に出会う、そんな感じの作業方法である。自分の思考が
必ずしも主体化して発語するわけではない。相手との言語関係の中で思わず
口に出るコトバも多い。自分の意図や思考を超えてしまったり裏切ったりも
する。そこが面白いところ、貴重なところ。
つかこうへいさんも初期には、稽古場で役者に即興でせりふを言わせたり、
口立てで芝居を作ったりしていた。最近は少なくなったようだが(劇作家主
導になった。つまり劇現場の基盤になる上演テクストの形成が個人作業的に
なった)、集団創作的な作り方をする集団が80年代にやっていたやり方の
一つでもある。
この方法は、身体性や非日常性をいかし、またテクストを織り成してゆく感
覚を加えて重層化するものだから、俳優は実は頭をより「深く」使う必要が
ある。つまり「思考の自動化」から脱する必要がある。常に考えて、考えた
イメージや想念をコトバですぐに表現しなければならない。普段と同じだ。
ただし普段のふるまいは日常のコードや見えないしきたり、習慣、禁止事項
に覆われているから、また必ずしも深く信頼していない相手とコトバを交わ
すことが日常一般の事態だから、ストレートに意見を言ったり、考えを表し
たりすると、自分が傷ついたりする。そのため、幾重もの「警戒感」の中で
慎重にコトバを選び、結果としてあいまいで差し障りのない表現になる。職
場だけでなく、教室だってこういう見えない「会話発語」への強制力(抑
圧)は常に働いている。そこのところは、取りあえず稽古場ではお互いに
「ごめんぶしつけで」のルール下に出来るので、この「ごめんぶしつけ
で」、「失礼は許して」というルール下だからこそ可能な即興会話が飛び出
すことになる。だから、面白くことなること当たり前なり、なのだ。
ふだんものをあまり考えていない人が語学の学習をいくらしても英会話は成
立しない。「F即興会話」もせりふのきれいな言い方をいくら勉強(稽古)
しても、語る内容、表現を俳優自身が持っていなければ、こういう考える
力、習慣を常日頃鍛えていなければ、出来ない。からこれは難しい。が、み
な面白がってくれた。やりかたは3名ほどが「語り手」(コメンテーター)
となりテクスト(『自由の国のイフゲーニア』、『アンティゴネー』からク
レオンの長せりふとアンティゴネーの長せりふ抜粋を使用してコメント的に
発話する)を順に発話。その間にこのコメントを念頭に断片的に演者が即興
会話を舞台上ではじめ、会話が始まると語りは中断、会話が途切れると再
び、コメントが始まる。夏場は暑いから、熱くなるファリファリ系の稽古は
控えて、しばらく思考を使う稽古をやることにする。
WS終了後、ワークショップに参加していたテラ・アーツ・ファクトリーの
佐藤和紅、横山晃子と『アンチゴネー/血』に関する作戦会議。話は盛り上
がる。
機械時計が発明されたのが、ヨーロッパで14世紀初頭。その後、市庁舎に
時計台が設置され、共同体も機械的な時間に支配される。それまでは時間は
神の所有。しかし人工的な時間が出来てからは、時を支配するのは商人(ブ
ルジョアジー)となり、「タイムイズマネー」となる。つまり時は金(効
率、労賃・給与、生産性)に代わり、金はモノに代わり、モノは再び金を生
み出すという資本主義の社会が成立するわけだ。労働時間という形で労働者
は資本家に支配され、時間をめぐって神と商人の激しい闘い、労働者と資本
家の激しい階級闘争の歴史が数世紀続いた。その中で自分の時間を作るため
に、ヨーロッパでは激しい労働時間短縮=個人の自由になる時間の創出、の
闘いが長期に渡って演じられ、次第に土曜半休、週48時間制、労働時間以
外の余暇を楽しむための場作り、つまり19世紀には博物館や美術館、公共
ホール、劇場などが共同体の中に作られていった。が、日本では「闘争」を
経ずにその制度だけが入ってきて、だから定年退職して時間が出来ても持て
余してしまう、始末になっている。公共ホールも劇場も十分、個人の時間の
ために利用されていない。
という中でも、われわれは、こうして自分の時間を何とかやりくりして作
り、作品の打ち合わせを終電までし、とやっている。が、演劇などの文化活
動を、生産労働とは別のものとしてはじめた者たちであるにも関わらず、日
本という何もかもが高い(家賃など基本的な生活基盤費が世界一高い)国の
中で、演劇をじっくりやる時間も考える時間も奪われている現状、そういう
奪取構造の中に私たち現場のニンゲンは渦中の者としてある。演劇をやると
は「時間闘争」以外の何者でもない。
演劇をやろうにも生活のための時間に限りなく縛られて、結果として演劇の
「コンビニ化」現象、つまり短い時間で手っ取り早く手軽に作る「法」が、
現在の東京の演劇創造現場の一般傾向となっている。というよりこれはもう
「創造現場」の体をなしていない。ここと我々は闘っていく・・・。つまり
時間との闘いであり、自分の人生の時間を取り戻す闘いが「演劇」であり、
なんです。。。。
ということから話は始まって、さて『アンチゴネー/血』の稽古に関して話
は戻る。ややこしくなったが、「神」(自然)の時間支配からニンゲンの時
間支配へ、「神」(自然)の法支配から人間の法支配へ、そういうこととリ
ンクしてみたい、と考えている。それも観念的ではなく、具体的、現実的、
身体的、なにより生活実感的に。
法を作り、国家を作ることでニンゲンがニンゲンを支配する。そこから飛び
出してしまうアンチゴネーとは。。。。。「アンチゴネーとは何者?」か。
人(自分)はなぜ、「其処」に焦がれるのか、引き寄せられるのか、そこが
今回の作品の焦点かな、とか。
まあ、稽古場の創造作業を前進させるため、演出部に加わった二人に一緒に
あれこれ考えてもらうことに。少しずつ、前進していくしかないんですね。
焦っても時はかかる。
タイムイズマネーから脱却せよ。時間をわれらの手に!それが私たちの演劇
行動なり。
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