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私たちは果たして「誰かに何かを伝える」ことが可能なのか?いや問いは伝
える確固とした何かを持っているのか?
俳優をめざす若者は、演技が上手くなりたいと言う。観客を感動させたい、
何かのメッセージを伝えたいと無邪気に言う。しかし、彼/彼女にどういう
メッセージがあるのか?「幸福感」?幸福でない者にそんな嘘がつけるそれ
が演劇の虚構?
「豊かさ」?その日暮らすのもやっとの若者が、少なくとも日常はきちんと
生きている社会人にそんなことを伝えられるのか?「不満」?不満の渦巻く
場にしたら、誰も劇場には来ないだろう。「不満」は会社の人間関係にも、
家庭内にも、地域にもあちこちに鬱積している。そんなものを聞きたくて誰
も劇場に足を運びはしない。。。。
観客=人々を幸せにするために俳優は存在する、演劇はある。素朴にそう思
っている若者がいる。誰でも「夢」は必要だろう、特に自己が不安定でおぼ
つかなければ一層、藁をもすがる思いで。それを自分の行為に重ねてしま
う。だから、人を感動させる仕事とは、「感動する生を生きれていない」自
分自身への切ない願いとも受け止めてよい。こうした素朴さを全部否定する
のは酷だと思う。しかし、表現者になる、とは本来過酷なことなのだ。それ
に耐え、自分(の空虚)を知り、その上でわずかな小さな自分の足場を作
る、そのために訓練はある、と私は思っている。
俳優志願者、演劇志望者が上手くなる、とは「誰かに、何かを」うまく伝え
ることなのか?その前に有名になりたい、成功したい、大手劇団に受かりた
い、事務所に受かってオーディションに通って、大役を得たい。極めて利己
的な目的、がキレイなコトバで、しかも何の悪意も自覚もなく反映する。
で、話し方教室では「何を、いかに」うまく表現するか、を習う。日常的に
は便利だろう。営業の仕事、教師の仕事、何かと便利だ。しかし、俳
優・・・表現者にとって、伝える何か、はどこに存在しているのか?話し方
教室と俳優訓練は同じなのか?
イデオロギーが生きていた時代(少なくとも、この世界の意味を意味づけた
キリスト教世界観が無効になった後の、近代の100年間の西欧では、人々
はマルクス主義によって、この世界が価値ある未来に進んでいる、少なくと
も〈そこ〉に歴史を進めるために自己の生命をかけてもよい、と信じてき
た。それに影響を受け、アフリカでもアジアでも南米でも日本でも、キリス
ト教価値観以外の国でも理想の未来ために多くの血が流されてきた。イデオ
ロギーが世界を、人間存在の意味を支えたからこそ、多くの人間がそのため
に死んでいった、それが20世紀でもある。それは一方で自由主義世界の理
想も浮き上がらせる働きを持っていた。戦後の二大陣営の拮抗は、相互が
「正しい」世界観を持っているという確信から生まれたものだ。
しかし、一方(マルクス主義世界観)が壊れた時、一方(アメリカ=「自由
主義」陣営)の内面の確信も崩れた。日本もその渦の中にある。そしてこの
大きな〈物語〉の崩壊は、一人一人の個人の内面の小さな確信も危うくして
いる。世界があること、自分が生きていること、に何かの意味を見出せな
い、そういう世界にいま我々は生きている。「理想の未来」を描けない、だ
から現在をただ〈いま、ここ〉をその場その場で生きてゆくしかな
い。。。。
その中で、一体、俳優は何を根拠に「伝えるべきこと」を持っていると、確
信できるのだろうか・・・・。一般的に養成所などでの演技の初歩の訓練
は・・・・・・スタニスラフスキーを源流にするナチュラルな演技から来
る。いわゆる「メソード演技」なり「システム」のことだ。それは〈不自然
さ〉をつまり〈こわばり〉をいかに取るか、そのためにあれこれとそれまで
「身に着けたもの」を否定してゆく。100年前に俳優教育(近代演技、近
代演劇の、ロシアにおいて)が成立した時、背景には帝政ロシアの古い農奴
社会を基盤にした身振り、語り口が民衆を支配していたということがある。
その上に大衆芝居があり、それをスタニスラフスキーは敵とした。近代演劇
は古い共同体に根ざした文化の表象である身振りや語り口の「矯正役」でも
あった。
日本に近代演技術がロシアから伝わった時、大衆は日本の農村共同体を基盤
に生まれた身振り、語り口・・・それは最後には<歌舞伎>という舞台形式
の<型>に昇華するのだが、それを如何に捨てるか、つまり「身につけた古
い捨てるべき衣服」は、日本の場合は、「伝統」と今は大雑把で不正確に名
指されるもの。そこでは身振りや語り口に反映された民衆の歴史そのものが
否定の対象でもあった。日本の近代化=西欧化という屈折とパラレルであ
る。だからその反動もつねにパラレルに表れる。政治においても、芸術にお
いても、演劇でも。アングラはその「反動」の頂点でもあったろう。
ともあれ、俳優術における否定の先にあるのは「無国籍身体」である。これ
が近代俳優術の基本である。日本人であってもロシア人になれる、ドイツ人
になりうる、そのためには共同体をコンテクストに生まれた身振り、語り口
を捨てること・・・つまり<不自然><こわばり>を捨てることが求められ
た。
で、いまは(いまの若者は)捨てなくても、もう十分「無国籍身体」であ
る。そんなものに捨てろといって、一体何を捨てたらよいのか?捨てるべき
もの(共同体に根拠を有するような)など何もない、ことのほうが切羽詰っ
た問題だ。
「不特定多数の間尺」を受け入れられる身体より、存在の根拠、意味を見出
せないふわふわと浮遊している<私>=<らげのような身体>をしかし、ぎ
りぎりで支える「一人の間尺」をごくごく小さな一点でもいいから見出す、
そのために訓練があるのなら、それはそれで意味がある。私にとって訓練、
とはそういうことだと思っている。
俳優にとって、肝心なのは「うまくなること」ではなく、そこに在り、何か
を表そうと必死にもがいている、その存在の小さな、でも何かしら無視でき
ない一点の足場を持っているか否か、である。あらかじめ「身についた古い
もの」などすでに何もない、だから我々が否定に向かっても何の意味もな
い。否定ではなく、肯定のほうに、そのために訓練はある。少なくともいま
考えるている<Fメソッド>の仮定形は、それを目指している。それをもっ
と明確にするために思考を開始し始めたところだ。キーワードはF(フレキ
シビリティ、フリーダム)、そしてC(コメンタール、クリティカ)であ
る。
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