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ワークショップグループB実施。専門学校を出て一年の女優志望、21歳の
Kさんに「演技って何?」と質問する。
「ええ???」という答え。そんなことは演劇を志す人間にとって当たり前
のことになっていて改めて考えることがない。こんな「おかしな」質問に戸
惑うのもよくわかる。
では、ある演技の専門学校(T学院とする)の学生のKさんがマクドナルド
でアルバイトをしている時を想定しよう。Kさんはマクドナルドの客にとっ
ては「マクドナルドの店員」という役(役割)であって、T学院の生徒では
ない。ましてや彼女自身が生まれてからの個人の人生などそこでは関係ない
ことである。役割、機能だけが要求されている。では彼女はマクドナルドで
演技をしていることになるのか?「マクドナルドの店員」という役を演じて
いるのか? 本人は考え込んだ。バイトの仕事の上での自分は演技と言えば
演技、演技でないと言えば演技でない。実のところ、どこまでが演技でどこ
からが演技でないか、よくわからない。あくまで「普段」の話だが。では舞
台ではどうなのだろう?「むむむ・・・」
アリストテレスが「模倣」(ミメーシス)ということを言っている。彼によ
るなら、人間は子供の頃から模倣することを好む生き物であるらしい。人が
社会に適応するのは、模倣しながら学習し「成長」するからと。社会に適応
するのに必要だからそうなるのか、もともと模倣するのが好きな性質を持っ
ているから、結果として模倣しながら学習するのか。アリストテレス曰く、
人は模倣することを生まれもって好む生き物である。まあ、あくまで理論だ
から仮説を立てながらでないと話は進まない。まずその前提で考えてみよ
う。人の性質、つまり「模倣好き」(物真似好き)があるゆえ再現芸術
(絵、音楽、誌、文学、演劇)が発生したとする。この再現芸術の中の一つ
が演劇であるわけだ。再現芸術が発生した理由は、労働や経済活動と直接の
関係はない。何故なら人がそれ自体を好む性質から発生しているから、つま
り自然性に依拠しているというわけだ。しかし結果として、再現芸術(その
基本の模倣)によって人は人として「成長」する。
演劇は舞台と同じ時間を生きる観客の<感情移入>によって、再現芸術とし
て「いま、ここ」に現在形として劇行為が創造される行為である。模倣する
ことを好む性質ゆえ、観客の中で上演されている劇行為が「再現」される、
その手段として「感情移入」が必要となる。
「人は模倣することを好む性質を持つ」、話を自分に引き寄せて考えるとわ
かりやすい。確かに何をするにもモデルがあって、それを真似しあるいは取
り入れ、それから自分なりに加工したりする。演技だって先輩にあこがれの
役者がいたり、彼/彼女の演技がかっこよかったりすると、無意識にそれを
真似ている自分がいたりする。はじめの頃の自分を考えるとそんな感じであ
ったことを思い出す。
アリストテレスの理論が演劇行為の基準になってルネサンス以降のヨーロッ
パ演劇は発展し、近代演劇に昇華された。その基本的図式の中で考えると、
Kさんという<人間>を表現することではなく、Kさんの創造する登場人物
A子さんの人生と出来事を再現し、更に作家が作り出したCさん、Dさんと
いう複数の登場人物たちとの行為の緻密な連鎖の構造を読み取った作家/作
家の意図を理解しようする観客が模倣行為として彼らの頭の中で劇行為を再
現するもの、それが演劇である、となる。
では、Kさんは何をするのか?まずは作家が読み取った複数の人物の行為に
よる連鎖の構造を把握し、その中のA子さんという役を位置づけ、その位置
づけに必要な行為をする、それが演技。だから演技は決して普段のKさんの
「全人生」をそこに表すことではなく、役割と機能を表出し、観客の中に引
き起こされる<再現>を引き起こすために動員されるものである。
このアリストテレス流「感情移入=同化」論を肯定するか、否定するかで2
0世紀の演劇は様々な主張を生んだ。代表的なものはブレヒトの「異化」効
果である。これはアリストテレス流の演劇観、つまり再現芸術の成立は「感
情移入=同化」によってもたらされる、という論に対する対論であると単純
には言い切れない。むしろ「同化」を前提としつつ、その上でこういう傾向
を相対化させようという論であるようにも考えられる。
話は広がってしまったが、改めて「演技って、では何?」と聞く。ますます
わからなくなったKさん。それはそうだ。普段の自分と舞台の上の自分、ど
っちが本当、と聞かれたってどっちも自分としか言いようがない。「舞台の
上の自分が本当の自分」という役者さんもいるかもしれないが、それは日常
の自分からの「逃避」に過ぎないかもしれない。常に自分の中、<私>の中
で格闘している自分がいる。それだけはわかる。そうすると「演技って、
何?」
さて果たして演技と非演技、虚構性と事実性とは分離できるものなのか?
「自然な演技」というが、自然とは偶然性の支配を受けるもの。とすると、
稽古を繰り返し、再現としての行為を形成する演技に「自然」という用語は
なじむのか?いや、近代の思考法の一歩外から見ると、この言い方は途端に
極めて不思議な言い回しに聞こえたりもする。
近代演技の基盤にある近代という思考法は人間社会を「第二の自然」と捉
え、自然性、つまり偶然性の支配からの脱却、人間の主体による理念と理
想、思考が社会を形成し、歴史を前進させる、という認識によるものだ。こ
の近代という思考法の仮説の上に、近代演技の「自然」もある。が、こうし
た近代の思考法、モダニズムそのものは世界を捉える思考法として機能不全
に陥ったとするのが、1980年代のポストモダニズムであり、日本の演劇
では1960年代に他の領域に先駆け、近代思考の機能不全をドラマトゥル
ギーや演技の問題の中に早くも問題提示している。
そうすると「自然な演技」は、むしろ「自然と演技」と対立的に捉えるべき
ではないか。自然が演技を形容する(限定する)ことばではなく、「自然」
と「演技」つまり、偶然性(即興性)と構築性(反復、再現、様式)の双方
がたえず衝突し、混交し、無意識と意識の境界を溶解する、そういう二者で
ある、と。
わたしたちの日常と同様に演技と非演技、それが複雑に絡みついた状態、つ
まり生の現実を表す<場>、それが舞台という場ではないのだろうか。そこ
ではたえず演技と非演技、自然性(即興性)と構築性(反復、再現、様式)
が衝突する、その間に演技者が存在する。そのような<場>を保障するもの
が演劇であり、舞台であり、上演、と言えるのではないのだろうか?すると
「演技って何?」うううむ、簡単に「自然な演技」と言い切れない、少なく
とも「自然」に対立する人為であり、かつ対立だけでなくその中に自然性も
混じった何か、とは言える。その何かはつねに対立している二者、あるいは
別と考えられるもの同士の「境界」を侵犯する何かである。
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