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演劇のリアルについて

2009年11月11日 記


『チャイニーズスープ』観る。こまばアゴラ劇場。

20年前に平田オリザさんが書いたものを全面的に書き変えた作品らしい。 久しぶりの土井さんの舞台観劇で内容も含めてその充実した演技を楽しむ。

特に印象深かったのは龍昇さん、土井通肇さんの「フィクショナル(虚構) な身体」。お二人とも普段から知っているし、かなり昔から知っている。だ から、二人がイスタンブールで老後を迎える東と西のスパイ(たぶん白人) という話は、はなから作りもの、二人の役も、役を演じている龍さん、土井 さんがそこにいて、このイスタンブールらしいどこかの家 (それも住居な のか何なのか曖昧)という架空の宙ぶらりんな場所にテーブルがあって、何 故か床に野菜が転がっていて、大きな鍋にフライパンやらタオルやら油まで ぶっこんで本火で煮込んでいるのを可笑しさ(ある種の不条理さ)を持って 観ていた。「ああ、舞台上で野菜を、包丁と一緒に煮込んでいる。一度やっ てみたい」などとやけに現実離れし た可笑しさ。その可笑しさが自分にと っては「リアル」だった。


もちろん、そのリアル感は舞台上(虚構空間)の出来事としての「リアル」 であって、舞台上で語られている物語、設定の上での「リアル」ではない し、現実(と我々が思いこんでいる、信じているもの)の延長上の「リア ル」でもない。あり得ないこと、現実離れしていること、舞台という虚構の 空間だから、という前提つきの上での「リアル」なのだ。だから、 現実で は決してやりたくてもやらない、思いつかない鍋に油も包丁も野菜も一緒く たに放り込んで煮込んでしまう「やけくそ」は心地よいし、その心地よさは 確かに私たちの心の中にある「欲望する身体」の欲求のある部分を実際化し てくれていて「快」を感じる。そういう精神の構造上の「リアル」なのであ る。

つまり現実の似姿としての「リアル」(と信じられているもの)の描出では なく、私たちの心象のなかにある願望としての「現実」(これが分裂的に統 合性を欠いて突き進めば妄想になる)が表出されているから共鳴しうるの だ。同時に日常ではあり得ないことだが、むしろ日常こそ「非現実」な現実 を無自覚に生きている、自覚されない物語を生きている私たち、という風に 気づかせてくれる、そんな批評構造を提示してくれる舞台でもあった。

これはやはり演技者の力量、存在感が大きく反映している。日常の延長上、 自我の延長上でうかつに「自然な演技」の積りで舞台に立ったりするとシラ ケテしまうだろう。別役さんのテクストの上演舞台の俳優、演技がしばしば そういう事態を引き起こしているのを何度も目撃している。「不条理」とは 「世界が壊れている」という仮説から出発する。だから、自我が日常のまま 固まっていると噛み合わなくなる。昔、観た「旧真空鑑」という早稲田小劇 場の中堅の俳優さんが作った劇団の芝居で、別役さんのテクストが見事に上 演空間を成立させているのを感銘して観た事があった。今回の舞台は平田さ んの書いたテクストを元にした舞台でも出色の一つではないだろうか。この 点は残念ながら他の平田作品をあまり観てないので何とも推測の域を出ない が。


私は平田さんの書いた演劇論をちらっと読んだ程度で、十分理解しているわ けではないのではっきり言える立場にないが、書に書いてある事を文字通り 受け取ってそのまま教条的に演技すると、おそらく今日の舞台のような感じ にはならないんじゃないかと思った。何事も「鵜呑み」はよくないと平田さ ん自身も思っているのかもしれない。ここら辺のことに関しては、深く理解 していない推測程度の話なので何とも言えないが、私自身は前回龍昇企画で 観た『夫婦善哉』も感心して観た。「リアル」な演技かどうかわからない が、そこにある身体は「リアルな身体」であった。それはストーリー、物語 設定の中の登場人物としての「リアル」ではなく、あくまで「演じている身 体」自体のリアルさであって、言ってみれば「虚構の身体」、「フィクショ ナルな身体」が成立している時に感じるものに近い。だからある距離を持っ て批評的に舞台に立ち会う事の出来る自由さを観客に与えてくれる。そうい う「素形を残して演じている身体」とでも言おうか。知人の龍さんや役者の 誰それさんが演じている作りものの世界の、しかしそこに作りものではな い、ある時間、 演劇に人生を費やしてきた具体的な役者誰それと言う人間 がいる。それが極めて信じられる出来事になっている。そういう「リアル」 さなのだ。それが舞台で何かをしている、何かを言っている。でもその全て が「リアル」な彼/彼女の存在根拠と通じていて、そうするとおそらくふだ んバイトや生業の職をしていたり食事をしていたりする日常の彼/彼女は た んに「舞台というフィクショナルな現実」を生きるための準備の生を送って いるに過ぎない、彼/彼女の実存、生はこの瞬間のためにこそあるんではな いか。そお思えたりする、 そういう感じ?


お二人の魅力的な「演じる身体」があって、おかげでこの舞台は「懐の奥の ある」舞台になっていたし、もしこれが舞台上の出来事を現実(と我々が信 じ込んでいるもの)のように本当らしく見せようという昔のリアリズム演技 でやったなら、こうは感じなかっただろう。現実と信じられている日常が必 ずしも「本物」ではない、という懐疑と距離を持った俳優が、自覚的に取り 組んでいるから成立する舞台ではなかったか。「世界は完成されたものでは ない」、それを自覚し、再認識するために演劇はあると言える。「人間は過 ちを犯す者」、だから演劇はある。それはギリシア悲劇の基本思想だ。改め て演劇の存在理由を考え た。



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