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「型」と演劇
2009年3月8日 日記より
王子神谷町にある劇場に岡村さんの公演を見に行く。劇団阿彌『ア・ミ・ ナ・ダ・ブ』、「観世栄夫追悼公演」と題される。

死んだ女が一夜だけ生き返る・・・能のようだ。外的印象ではなく、実際に 観世さんに能を師事したという岡村さんだから当然、能の精神を自覚的に踏 襲しているのだろう。ただし世阿弥の能は複式夢幻能であるのに対して、こ ちらは単式夢幻能(という言葉は勝手な造語だが)。舞台は3間四方、4人 だけの登場、その内一人は舞台脇にいるが、声のみ。殆どかすかな動き、抑 制をかけている。徹底している。


しかし言葉を話すだけの劇ではない。身体の強度が言葉を支えている。



言葉と視界から来るイメージが象徴界の中で像を作る。こうして劇の再現は 脳内で成立する。記憶による情報の蓄積と感覚器官から受け取る情報が重ね られ模像を作って世界を再現する、これが我々の脳の構造だが、感覚器官か ら入る情報の前にすでに脳の中で多くのことを既知していて、現実界からの 直接情報はそれを補佐する程度の場合から、より感覚器官が有効に働いて、 脳の中で固定された像(型)を超え、柔軟に「型破り」の認識が出来る場合 まで、この両者の間にさまざまなレベルがある。そして観客は、この間の濃 淡の度合いに応じて、目の前のことを認識する。だから一人一人で同じもの を見ても脳の中で見えているものは全く個人個人で違っているのだ。


「型」(心的レベルの)に縛られた状態が強いと見ているのに観ていない。 触れているのに触れていない状態になる。何故なら脳の中ですでに事物は固 定されているからだ(固定観念)。ワークショップに初めて来る人は大概、 相手の声も言葉もちゃんと聞かない。これが我々の日常身体である。ちゃん と目の前の相手さえ聞いていない、見ていないのだ。だから目利きの観客に なるとは「聴く、観る」という訓練がかなりいる。

更に日本人は「型」でものを見る度合いが強い。「型」に依存しすぎる理由 は、内面が不安定で不確かだからだ。「型」が決まったものに依存したほう が安定しやすいということもある。だから「お芝居」という「型」、演劇と いう「型」がすでにあるものだと思い込んでいる。これらの「型」の基本は すべてアリストテレスの美学の中にある。テレビ・ドラマまでそうだ。25 00年、変わらない。いや、20世紀に歴史上(西欧だが)初めてアリスト テレス・パラダイムを超えた演劇人がいた。それはベケットである。が、そ れだけだ。いや、これは西欧に限定してのことで、能はアリストテレス以前 (西欧演劇以前)というより、その後、つまりすでに西欧2500年の演劇 パラダイムをとっくに越えていた。

だから西欧の演劇を機軸に見れば(現在の日本人の演劇観はアリストテレ ス・パラダイムの枠の中、という点で「西欧演劇枠」)、能は未来の演劇で ある。クロアチアの先進的フェスティバルのプロデューサーも語っていたの を思い出す。


一般に能や歌舞伎は「型」の演劇と言われる。しかしそれは誤解である。武 智鉄二は「型に入って、型を破る、そこに衝突のエネルギーが生じる」と言 っている。つまり「型」は仕掛けに過ぎない。それ自体が表現の表徴であ る、とするのは誤解なのだ。かつて日本人は(明治に入る前は)、舞台の 「型」を愛し見ていたわけではない。「型」に捉われ、そこに目が行く、つ まりバレエや欧米の宮廷芸術を見るように観る態度は明治以降に作られた 「伝統芸術」なる擬制の中で形成されたものに過ぎない。

それは「日本人」を作り、「国民」を作る。こうした政府の努力は教育に向 けられた。唱歌などに込めて「日本の風景」という幻想が生み出された。明 治20年頃のことだ。それまで日本人は誰も「日本の風景が美しい(美しい 国、日本)」なんて考えたこともない。必要もなかった。せいぜい自分の郷 里の山川に愛着がある、程度だ。「伝統」なんて考えたこともない。生活の ために親の職業や技を継ぐことはあってもそれは生活・生存の必要からでし かない。そのことと「伝統」という内面を統制するための権力の政治的イデ オロギーは別ものである。

日本的ナショナルな心情、内面形成によって「国民国家」を強化しようとし た明治期の国策と美学が一体となり、更に「伝統」が捏造されながら、それ までこの国土に存在しなかった「日本」と「日本人」が性急に作られていっ た。美学はナショナルアイデンティティを支え、今も「型」に依存する体質 が継承されている。


こうした歴史背景の中で内面の無自覚な権力構造(権威依存)は現在の日本 人の心性を強く呪縛している。たとえば「格付け」が好きで、「格」でもの を見たがる。演劇という狭い業界の中でさえ「格」があがることに汲々とす る。そんなものは芸術家にとって害悪ではあっても、何の価値もないことな のだ。にも関わらず、「格」を欲しがる心性。そしてそれを後押しする観 客。自力で良い舞台を見つけようとしない。誰かが良い、と言っているので 行く。で、確認する。人と同じであることで安心する。疑わない。


現在の観客は芝居を見る前から見方がすでに固まっている。テレビのドラマ の情報が大量に脳の中に入っているから、その「型」と合わないものはよほ ど自覚的にこの「型」から脱する努力をしない限り、見えてこない。目の前 で展開されている「一期一会」的世界という現実と出会えなくなっている。


などなど観劇の後、いろんなことを取りとめもなく考えた。劇に臨む岡村さ んの子供のような純真さも良く伝わった。純粋なアーチストである。



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