日本語で言う「物語」が"霊"を指すことはよく知られている。す
なわち「物語」とは、超自然の存在が語りかける言葉が"物語"な
のであり、人はその物語を媒介者である人の口を通して聞いたの
だ。それは例えば一族の出自の話であったり、共同体(村落)内
における過去の事蹟であったりしたろう。
林英樹の連作<風の匂い>シリーズは、そうした原・物語とでも
いったものを想起させる。そこではきまって物語は風が運んでく
るもだからだ(『フーレップ物語』においては楡の木の精が語り
かける)。滝康弘扮する主人公ーー保線区員であったり、炭鉱労
働者であったり、あるいは出稼ぎの石油プラント建設労働者だっ
たりするのだがーーは、風や木の精といった超自然の声に耳を傾
けることによって物語世界の中に引き込まれる。ちょうどミヒャ
エル・エデンの『はてしない物語』で、少年セバスチアンがあか
がね色の本の中に吸い込まれてしまうように。
中略
しかし、風の声によって呼び起こされる夢想が、まさに集団によ
る「語り」として出現してくるところに、僕はやはり並々ならぬ
もを感じてしまう。フーレップでも、シェラザードでも、ジャン
ヌ・ダルクでも「語り」の内容などはいくらでも代替可能なのか
も知れない。要は、風(風にそよぐ樹でも)が語る言葉が<物=
語り>を喚起するという、その劇構造がいかにも今日的な物語論
たりえているということを指摘したいのだ。
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